タイトル未定2026/01/05 12:43
目を覚ましたとき、私は天井の飾り彫りを見上げていた。
白い石の梁、金色の縁取り。病院じゃない。会社の会議室でもない。
……ああ、これ、やったな。
私は、会社員だった。終電に揺られて、明日の資料のことを考えながら、眠りに落ちて――。
「起きたか」
低い声が落ちる。短くて、無駄がない。
視線を向けると、部屋の隅に人影があった。背が高い。鎧ではないけれど、肩幅が広く、ただ立っているだけで圧がある。腕が太い。布の上着の袖が、少しだけ引っ張られている。
騎士、だ。たぶん偉い。……怖い。
「えっと……ここ、どこですか」
「王城の医務室」
「……私、死んだんですか」
自分で言って、自分で喉が詰まった。
あの夜、何かがあった気がする。転びそうになって、誰かが叫んで――そこから、暗い。
男は、少しだけ目を伏せた。
「召喚だ」
「……しょうかん?」
「魔術師が、おまえを呼んだ」
呼んだ、と言われても。宅配便でもあるまいし。
けれど、確かにここは異世界だ。肌に触れる空気が乾いている。窓の外に、見覚えのない青い旗が揺れている。
「……私、何の役に立つんですか」
口から出たのは、そんな言葉だった。
自分でも情けない。まず心配するのは自分の能力。会社でも、最初に気にしていたのは評価。迷惑をかけないか、足を引っ張らないか。
癖みたいに、身体に染み込んでいる。
「それを、俺に聞くな」
「すみません……」
怒られたわけじゃない。声も表情も変わらない。
でも私の心臓は勝手に縮こまる。
男は、近づいてきた。足音が静かで、余計に怖い。
医務室の椅子の前で止まると、私の手の甲に包帯が巻かれているのを見た。
「痛むか」
「いえ……大丈夫です」
嘘ではない。痛みはない。ただ、全部が不安で、胸の奥が冷たい。
「水」
男はコップを差し出した。手が大きい。指の関節がしっかりしていて、握ったら折れそうだ、と一瞬思ってしまって、慌てて視線を逸らした。
「ありがとうございます」
水を飲むと、少しだけ落ち着いた。
男は名乗らない。私も名乗るタイミングを逃して、コップを両手で握りしめる。
「……あの、あなたは」
「騎士団長、レオルトだ」
名前を聞いた途端、背筋が伸びた。団長。やっぱり偉い。
「わ、私は……」
「名はあとでいい。いまは寝ろ」
言い切って、レオルトは窓の方へ歩いていった。
外を見張るみたいに腕を組む。上腕の筋肉が、服越しにもはっきり分かる。怖いのに、目が離せない。
私は変なところで現実逃避する。いつもそうだ。心が追い詰められると、どうでもいい細部に意識を寄せてしまう。
「団長……」
「何だ」
「……私、帰れますか」
レオルトは少しだけ黙った。
「帰りたいのか」
その問いに、私は答えを持っていなかった。
帰ったところで、私には何がある? 満員電車と、上司の顔色と、終わらないタスク。
でも、ここに残っていい理由もない。居場所がないのは、どこでも同じだ。
「……分かりません」
正直に言うと、レオルトは少しだけ眉間を寄せた。
そして、それ以上は聞かない。
無口だ。だけど、無視されている感じがしない。不思議だ。
「眠れ」
それだけ言って、レオルトは扉の外に出ていった。
私は天井を見上げたまま、静かな異世界の夜に落ちていった。
⸻
翌日から、私は「異世界に召喚された会社員」になった。
召喚した魔術師たちは、私を見る目が明らかに曇っていた。
勇者召喚――本当は、魔王討伐の切り札になるはずだったらしい。けれど私は、光る剣も、魔法の詠唱も、何もできない。
「彼女は……外れだな」
そんな言葉が、廊下の角で聞こえてしまう。
私は笑ってしまった。
外れ。会社でも、似たような言葉を飲み込んできた。期待外れ、役立たず、コスパが悪い。
世界が変わっても、ラベルだけ貼り替えられる。
「……やっぱり私は、どこでもダメなんだ」
小さく呟いたとき、足音がした。
「何がだ」
振り向くと、レオルトがいた。騎士団長は、いつも突然現れる。
そして、いつも同じ顔をしている。怒っているのか、無関心なのか、判別できない。
「いえ……」
「おまえ、城を歩くときは護衛をつけろ」
「えっ、そんな……私、何もできないのに」
「だからだ」
短い。正論が痛い。
私は、ふっと笑った。
「……団長、私のこと、面倒ですよね」
レオルトは、足を止めた。
「面倒だ」
「ですよね……」
うつむきかけた私に、レオルトが続けた。
「だが、捨てはしない」
心臓が一拍遅れて鳴った。
言葉の意味が、胸の中でゆっくりと解ける。捨てない。
私に向けられる言葉として、あまりに久しぶりで、どう反応していいか分からない。
「……どうして」
「召喚された者は、国の責任だ」
責任。そう言われれば、それまでだ。
でも、それでも。
その言い方は、冷たいはずなのに――変に温かい。
「……団長って、優しいんですね」
「違う」
即答。
レオルトは私の肩の横を指で軽く押して、進む方向を示した。
「ここは通路だ。邪魔になる」
「す、すみません」
私は慌てて端に寄った。
レオルトが歩き出す。背中が大きい。鎧を着ていないのに、守られている気がする。
……勘違いでも、今はそれでいい。
⸻
私は城で「働ける場所」を探した。
何もできないなら、せめて迷惑をかけない範囲で、役に立ちたい。
それは生きるための術であり、私の癖でもあった。
医務室で手伝いをした。包帯を切る。水を運ぶ。床を拭く。
貴族の侍女たちは、最初は私を子ども扱いしたけれど、私が口答えしないと分かると、無難に使うようになった。
ある日、医務室に、ひときわ大きな影が差した。
「団長……?」
レオルトが、腕に傷を作って戻ってきた。
浅いけれど、皮膚が裂けている。血がじわりと滲んで、服の袖が赤い。
「……どうしたんですか!」
「訓練中だ」
淡々と答えながら、レオルトは椅子に座る。
私は慌てて消毒液を取った。震える指で布を湿らせる。
「痛みますか」
「痛む」
「……そ、そうですよね」
なんて会話だ。
私は自分の不器用さに泣きたくなる。それでも、レオルトは何も言わずに腕を差し出した。
皮膚に触れた瞬間、筋肉の硬さに驚いた。
ただ太いだけじゃない。生き物みたいにしなやかで、張りがある。
私は変な顔をしないように必死で、視線を消毒に集中させた。
「おまえ」
「は、はい」
「手が震えている」
「すみません……団長の腕が、すごく……」
言いかけて、口を閉じた。
何を言っているんだ私は。
レオルトの口元が、ほんの少しだけ動いた。笑った? ……いや、気のせいかもしれない。
「怖いのか」
「怖い、というか……失敗したら嫌だなって」
「失敗しても死なない」
「……でも、団長は痛いでしょう」
その瞬間、レオルトの視線が、私の手元ではなく、私の顔に来た気がした。
私は思わず息を止める。
「……おまえは、痛がることに慣れている」
「え?」
「自分のことを、後回しにする顔をしている」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
そんな顔、していたんだ。私は。
会社で、いつも。
「大丈夫です」と笑って、内側で擦り切れていくやつ。
「団長……私、変ですか」
「変ではない」
「じゃあ……」
「良くない」
短い言葉が、静かに刺さる。
叱責ではなく、断定。
まるで、私のことをちゃんと見ているみたいに。
「……私、何もできません。ここにいても、外れです」
口に出した途端、涙が出そうになって、私は慌てて消毒を続けた。
手を止めたら、もっと情けなくなる。
レオルトは黙っていた。
だけど、次の瞬間。
大きな手が、私の手首をそっと押さえた。
止めるでもなく、奪うでもなく、ただ「落ち着け」と伝えるように。
「……おまえは、ここで働いている」
「……手伝ってるだけです」
「働きだ」
レオルトの声は変わらない。無口で、硬い。
それなのに、その言葉は、私の胸の奥の冷たいところに、じわじわと浸みていった。
「役に立つか立たないかで、自分の価値を決めるな」
私は、息を呑んだ。
そんなこと、誰にも言われたことがない。
私の価値は常に、成果と数字と、誰かの評価で決まっていた。
「……でも、私、ここにいていい理由がない」
ぽつりとこぼすと、レオルトは、少しだけ目を伏せた。
「理由なら、俺が作る」
……え?
私が固まっている間に、レオルトは立ち上がった。
傷の手当てが終わった腕で、軽く上着を直す。
その仕草だけで、筋肉が動くのが分かる。なのに、声は相変わらず淡い。
「明日から、騎士団の詰所で働け」
「えっ」
「書類の整理ができるだろう。おまえは、文字が読める」
異世界の文字は、なぜか読めた。召喚特典なのか、頭の中に意味が滑り込んでくる。
でも、それを「できる」と言われたことが、私は嬉しくて、怖かった。
「私が……騎士団で?」
「嫌か」
「嫌じゃないです! でも……皆さん、迷惑じゃ……」
「迷惑なら、俺が止める」
言い切った。
その瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
誰かが、私の居場所を言い切ってくれる。
それだけで、人は立っていられるんだ、と初めて知った。
⸻
翌日、私は騎士団の詰所に通された。
騎士たちは最初、私を見て眉をひそめた。
「外れの召喚者」「役立たず」――噂は早い。
「団長が拾ってきたんだろ」
「かわいそうにな」
聞こえる。聞こえてしまう。
私は笑ってしまう。どこでも同じだ。
でも、レオルトが詰所に入ってきた瞬間、空気が変わる。
背筋が揃う音がする。
「彼女は、俺の指示でここにいる」
たったそれだけ。
なのに、騎士たちは口を閉じた。
私は、自分の喉が熱くなるのを感じた。
“俺の指示で”
その一言が、許可証みたいだった。
私は書類を整理した。伝票をまとめた。倉庫の備品一覧を作った。
会社でやってきたことと、似ている。
違うのは、隣にいる人たちの手が剣だらけだということと――
夕方、仕事がひと段落したころ。
レオルトが私の机に影を落とした。
「終わったか」
「はい。……あの、団長。これ、備品の数が合わなくて」
差し出すと、レオルトは紙を受け取った。指が分厚い。紙が小さく見える。
「……よく気づいた」
その言葉だけで、胸がふわっと温かくなる。
たぶん私は、こういうのに弱い。成果じゃない、数字じゃない、ただの“見てた”が欲しい。
「団長、いつも……私のこと、見てますよね」
言ってしまって、私は顔が熱くなった。
レオルトは、紙を机に置いた。
「見ている」
即答。
視線が逃げない。
無口なのに、言葉はまっすぐで、逃げ道がない。
「……どうして」
私が聞くと、レオルトは少しだけ考えるように黙った。
そして、低い声で言った。
「おまえが、ここにいることを許したのは俺だ」
許した。
それは、上から目線にも聞こえるはずなのに、私の胸には違う形で落ちた。
“選んだ”に近い。
「だから、責任を持つ」
「……責任」
「そうだ」
レオルトが言葉を切ったあと、珍しく続けた。
「……おまえが、自分を捨てそうになる顔をするたび、俺は腹が立つ」
私は目を見開いた。
怒ってくれている。私のために。
そんな感情を向けられる資格が、自分にあると思ったことがなかった。
「……団長」
「何だ」
「私、ここにいていいですか」
声が震えた。
今まで何度も聞きたかった言葉。誰にも言えなかった言葉。
レオルトは、ほんの少しだけ眉を緩めた。
そして、いつもの短い調子で言った。
「いい」
たった二文字。
なのに、胸の奥の冷たい塊が、静かにほどけていく。
「……私、頑張ります」
「頑張りすぎるな」
それが、レオルトの優しさなのだと、私はやっと分かった。
大げさな慰めも、甘い言葉もない。
でも、私がここにいることを、当たり前みたいに認めてくれる。
私は、こっそり息を吐いた。
異世界の空気が、少しだけ甘く感じた。
「……団長、私、あなたのこと……」
言いかけて、止めた。
言葉にしたら、壊れてしまいそうで。
レオルトは、私の机の端に、指を一本置いた。
太くて、温かい指。
まるで、そこにいると示すみたいに。
「ここにいろ」
それだけ言って、彼は去っていった。
私はしばらく、その指が置かれていた場所を見つめた。
胸が熱い。
でも、痛くない。怖くない。
初めてだ。
“役に立つから”じゃなく、“ここにいていい”と言われたのは。
私は小さく笑った。
明日も、ここに来よう。
私の許可証をくれた、無口で筋肉だらけの騎士団長の隣に。
――今度は、ちゃんと、私自身として。




