7
鍋を食べていると、外から車の音がした。
雪を踏むタイヤの音が低く響いた。
「父さん帰ってきたわ」
母が小さく言った。
玄関のドアが開いて、冷たい空気が流れ込んだ。
コートを脱ぐ音、靴を脱ぐ音。
それから、短い咳払い。
「ただいま」
低い声だった。
昔と変わらない。
「おかえり」
母が返す。
父が顔を出した。
俺を見ると、一瞬だけ目を丸くした。
「……帰ってきてたんか」
「うん。さっき」
それで会話は終わった。
でも、それでいい。
父は手を洗って、椅子に座った。
母が鍋をよそって置く。
「ほれ。冷めるから食べな」
「おう」
父は無言で箸を持ち、
豚バラを溶き卵につけて、
七味を少し振った。
「ああ、これだな」
小さく呟いた。
それを聞いて、少しだけ笑いそうになった。
父は派手に褒めたりしない。
何も聞かないし、理由も聞かない。
昔からそうだ。
「東京はどうだ」
急に父が言った。
「別に。普通」
「普通ならええ」
それ以上は何も言わなかった。
こっちを見ることもなく、
ただ鍋を食べていた。
母が笑いながら小皿を渡す。
「陸、餅も入れる?父さん好きなんだわ」
「あとででいいや」
父は餅を食べながら、
七味を少し多めに振った。
湯気がゆっくりと立ち上って、
部屋の空気に溶けていった。
会話は少なかった。
でも、鍋の音と、湯気の匂いと、
三人で座っている空気だけで十分だった。
なんにも特別じゃない夜なのに、
やけに落ち着いた。
鍋があと少しになったころ、
父が湯呑みにお茶を注ぎながら言った。
「明日、雪降るらしいぞ。
道路凍るかもしれん」
それだけの言葉なのに、
この家のペースを思い出した。
静かで、ゆっくりで、
言葉よりも“生活”が前にある家。
東京で忘れていたものが、
そこにあった。
鍋を食べ終わると、父が茶碗を置いた。
「ん。ごちそうさん」
それだけ言って立ち上がり、
脱衣所の方へ歩いていった。
風呂が湧いている音が聞こえる。
ドアが閉まると、
家の中がまた静かになった。
俺は空いた皿をまとめて、シンクへ運ぼうとした。
「いいよ、置いときな」
母が振り返った。
「いや、洗うよ。俺やるから」
そう言って皿を持ち上げると、
母は少し笑った。
「帰ってきて、すぐ皿洗いなんていらんしょ。
明日でいいんだわ」
「でも…」
言いかけたところで、
母が鍋敷きを片づけながら言った。
「陸は休みなさいって。
帰ってきてまで働かなくていい」
声は強くなかった。
怒っているわけでもない。
ただ本気でそう思っている声だった。
それでも、急に何もしないのは落ち着かなくて、
洗い場の前に立ったまま皿を持っていた。
母が横を通りながら、
そっと皿を取り上げる。
「こういうのは、あたしの仕事だよ。
陸はあったかいとこ行ってな」
その一言で、手の力が抜けた。
言われた通りテーブルに戻ると、
母が蛇口をひねる音がした。
水が鍋に当たる音、
食器がカチャンと重なる音。
ずっと聞いていた音だった。
父がお風呂から出てきて、
タオルで髪を拭きながらリビングに戻った。
「風呂、入れ」
それだけ言って、テレビをつけた。
いつもと変わらない夜の風景だった。
けれど、そこに自分がまた座っているのが
不思議なようで、少し安心でもあった。




