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小さなリュックに、最低限の荷物を入れた。

服を何枚か、充電器、財布、スマホ。

それだけ。

生活が軽くなったというより、

持っていくものが思いつかなかった。


玄関で靴を履いたとき、少しだけ迷った。

「本当に帰るのか」と、頭のどこかが言った。

でもドアを開けた。

外の空気は冷たかったけど、

それはちゃんと “冷たい” と感じる温度だった。


駅までの道を歩く。

まだ人が少なくて、

誰ともすれ違わなかった。

街は静かで、

自分の靴の音だけが聞こえた。

信号機の青い光が、薄暗い道路に落ちていた。


電車に乗った。

席に座ると、窓に街の景色が映っていた。

見慣れたはずの建物が、

今日はやけに薄く見えた。

引っ越しでもないのに、

なにかを置いていくような気がした。


電車は静かだった。

誰も喋らず、

ただ前を見て座っていた。

窓の外では街が流れていった。

アパート、学校、川、橋。

何年も暮らした場所なのに、

他人の街みたいだった。


空港行きのバスに乗り換えた。

スーツケースを持った人が多かった。

家族連れ、仕事の人、旅行の人。

小さな子どもが眠っていて、

母親が毛布をかけていた。

それを見て、

胸の奥が少しだけ痛くなった。


バスの窓から外を見ると、

高速道路のガードレールが続いていた。

大きな看板、倉庫、

遠くに見える鉄塔。

全部同じ速度で後ろに流れていった。


空港に着くと、

広いロビーの空気がひんやりしていた。

天井が高くて、

人の声が少し反響して聞こえた。

キャリーケースのタイヤの音が

床を滑る音と混ざって、

ずっとどこかで鳴っていた。


チェックインの列に並んで、

順番を待った。

順番を待つ、

ただそれだけの行為が、

妙に現実的だった。

社会の中にまだいる気がした。


ゲートを通る時、

金属探知機の音がして、

自分の番になった。

警備員に「どうぞ」と言われた瞬間、

喉の奥が少し詰まった。

こういう小さなやりとりさえ、

久しぶりだった。


搭乗口の大きな窓から外を見ると、

飛行機がいくつも並んでいた。

白い機体の下に、

整備士が小さく動いていた。

朝の光が、

金属の表面に反射していた。


機内に入ると、

特有の匂いがした。

少し冷たい風と、

ガソリンの微かな匂い。

席に座り、

シートベルトを締めた。

胸のあたりが少し重くなる。


滑走路に出ると、

窓の外で風が強く吹いていた。

地面の白いラインが遠ざかる。

加速する感覚で、

息が止まりそうになった。


離陸した瞬間、

体が少し浮いた。

高度が上がり、

街が下に広がった。

ビルも道路も、自分のいた場所も、

小さくなっていった。

あんなに苦しく感じていた街が、

写真のように小さく見えた。


雲の上に出ると、

真っ白な世界になった。

雲の層は分厚くて、

太陽の光が反射して眩しかった。

何も考えずに、

外をぼんやり眺めていた。


隣の席の人が寝息を立てていた。

前の席の子どもが、

小さな声で歌を歌っていた。

それを聞いていて、

胸の奥に少しだけ温度が戻った。


しばらくして、

機内アナウンスが流れた。


「まもなく新千歳空港に到着いたします」


その言葉で、心が動いた。

自分が本当に帰っていることを

初めて実感した。


着陸すると、

機体が低く震えた。

乗客たちが一斉に立ち上がる気配がして、

荷物入れが開く音が続いた。


タラップを降りて、

外の空気を吸った。

冷たかったけど、

刺さるような冷たさじゃなかった。

湿っていて、

懐かしい匂いがした。


新千歳空港。

ガラス越しに見える雪。

白い空。

息を吐くと白くなった。


ただそれだけで、

帰ってきたと思った。


ここで生きていた頃の自分が

急に思い出された。

まだ笑えていた頃の自分。

まだ何かを信じていた頃の自分。

全部が遠くて、

でも確かにここにあった。


胸の奥が少しだけ重くなって、

それでもどこか軽くなった。

自分の足で戻ってきたことが、

それだけで少し救いだった。

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