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『まだ起きてる人いますか』



ここ数ヶ月、

俺はほとんど誰とも会話をしていなかった。

会社を休んでからは、

スマホを見ることすらできなかった。

画面を開くだけで胸に重い何かが乗って、

通知が来る音が心臓に刺さるように感じて、

だから、触らなかった。

触れなかった、と言ったほうが正しい。


実家に帰ってきて、

母の声を聞いて、

父のいつもの咳払いを聞いて、

湯気の中で昔のことを思い出して、

やっと少しだけ呼吸ができるようになって、

その“少し”のまま布団に潜り込んでスマホを開いた。


それだけで今日の俺には十分大きな一歩だった。

だから、この見知らぬ誰かの一行に触れた瞬間、

遠い場所の人間と繋がってしまうあの感覚が、

急に現実味を帯びた。


画面の下に「ユーザー名を設定してください」と出ていて、

指がうまく動かず、

ほんの数秒、そこで止まってしまった。

名前をつけることすら、

ちゃんとできるのか不安になって、

息を浅く吸ったまま固まった。


でも、《やめたらまた触れなくなる》

そんな予感がして、

親指をゆっくり動かした。


「riku」と入力した。

意味は薄い。

ただ四文字が落ち着いた。

設定を終えると、

ページがすっと明るくなり、

さっきの一行がまた眼に戻った。


その一行に返事をすることは、

たった十文字を打つことなのに、

胸の奥がほんの少し痛くなるような緊張を伴っていた。

久しぶりに、

人のことを考えながら文字を打つという行為をしたからかもしれない。


打つか打たないか、

数秒迷って、

迷ったまま「起きてます」と打ち込んだ。

送信ボタンを押す瞬間、

手がほんの少し震えた。

緊張というより、

久しぶりに誰かに届く“声”を出すような感覚だった。


白い画面に自分の文字が並んだ瞬間、

この部屋の静けさが変わったように感じた。

知らない相手に言葉を渡しただけなのに。


数拍置いて、

画面が小さく揺れて新しい文字が出た。


『返事くれると思わなかった。

 この時間、誰もいないかと思ってた』


「mogi」という見知らぬ名前。

その人がどこに住んでいて、

何歳で、

どんな顔をしているのか、

全く分からない。

でも、

その距離が逆に安心した。


「眠れないだけですよ」と返すと、

脈拍が少しだけ早くなった。

小さな会話なのに、

妙に身体が反応しているのが分かった。


『眠れない日ってあるよね。

 なんか、理由なく起きてる日』


「そうですね」と返す。

本当は理由なんていくつもあるけれど、

それをここに置く必要はなかった。


『そっちは寒い?

 こっちは夜がやけに冷える』


“そっち”という言葉。

この人は俺がどこにいるか知らない。

全国のどこかの誰か。

ただ同じ夜を生きているだけの相手。


「寒いですね」とだけ返した。

場所を言う必要も、

事情を説明する必要もなかった。

ただ気温の話をするだけで、

胸の奥がゆっくり開いていくような、

そんな奇妙な安心があった。


スマホの光が天井に淡く跳ね返って、

部屋の空気がわずかに動いた気がした。

今日、初めて他人と会話をした。

たったこれだけの言葉のやり取りなのに、

布団の中の温度がゆっくり変わっていくのが分かった。


そして次の言葉を待つ自分がいて、

そのことに自分で少し驚いた。

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