貴婦人と深紅の悪花
昔々、ある所に、フローラという美しい貴族の娘がおりました。その名の通り、彼女は花好きで、屋敷の庭は美しい花でいっぱいでした。そして彼女の心も花同様、とても美しいものでした。
そんな彼女に、王子の目が留まります。話はトントン拍子に進み、婚礼の日取りも決まった或る日の事。突然、彼女の屋敷で悲劇が起こりました。城の兵が押しよせて来たのです。
「謀反の疑いで、調査をする!」
厳つい顔をした隊長が、声を張り上げました。
彼女の父親と、娘を含む家族は全て捕まり牢に入れられます。そしてロクな調べもなしに形ばかりの裁判が行われ、彼女たちは皆、死刑と決まりました。
これは、とある貴族の仕組んだ罠でした。その貴族の娘であるヴァネッサは、王子に強く魅かれており、娘を溺愛する父親が、娘と共に全てを企てたのです。王子は、愛した娘が逆賊だと信じ、救いの手を差し伸べる事もしませんでした。そして失意の彼に、悪党の娘は大変上手く取り入ったのです。
冷静さを失っていた王子は、彼女の思うがままとなり、ついには結婚を約束するに到りました。
処刑の前夜、失意のどん底にあるフローラの前に悪魔が現れ、彼女に真実を話します。そして、ある申し出をしました。
「お前の美しい魂をくれるなら、お前の望みを叶えてやろう。ただし、魂を頂くのだから、命を助ける事は出来ない」
心を絶望に支配されていたフローラは、悪魔と契約を交わします。
そして彼女とその家族は、逆賊の汚名を着たまま、王たちの前で処刑されました。汚いものを見るような目つきの王子と、勝ち誇ったような悪党の娘の目の前で。
ところでヴァネッサは、フローラと同じく花が好きでしたが、それは花を愛していたわけではなく、あくまで自分を美しく見せるための道具としてのものでした。
彼女は主の居なくなったフローラの屋敷から、彼女の育てた花々を根こそぎ、自分の屋敷へと運ばせます。フローラは大変珍しい花を多く育てていたので、ヴァネッサは、それが欲しくてたまらなかったのです。
「あら、これは何の花かしら」
花の知識には自信があったヴァネッサですら、彼女の知らない花が一凛、植え替えられた花々の中にありました。その花は、まだ開きかけなのですが、深紅に染め抜かれた大変魅力的な花でした。
ヴァネッサはその花をいたく気に入って、世話を使用人には任せずに、自らが丹精込めて育てました。花は開くのと同時に少しずつ大きくなり、遂には顔の半分ほどの大きさにまで成長します。
「私の献身的な愛情の賜物ね」
ヴァネッサは、事あるごとに周りの者たちへ自慢をしました。
「そうだ。この花を王子さまとの結婚式の目玉にしよう」
深紅の花の美しさと威厳は、王族との婚礼にふさわしいと誰もが誉めそやします。ヴァネッサは、心の底からフローラに勝ったと思いました。
さて、いよいよ教会での結婚式当日。
新郎新婦の傍らには、大輪の深紅の花。二人は、神父の求めに応じて神への言葉を述べました。続いて神父が「誓いのキスを」と語りかけ、王子とヴァネッサの永遠の愛が成就しようとしたその時です。
”許さない”
どこからか、絞り出すような声が聞こえました。それは恐ろしい怨嗟の塊のような響きを持っており、新郎新婦はもちろんの事、信仰厚き神父ですら、震え上がるほどの恐ろしさです。
”許さない”
再び、心臓をえぐるような声が教会に響きました。
「あの花だ!」
参列者の誰かが、叫びます。
確かに声は花の方から聞こえており、同時に花も大きく揺れ始めました。
”許さない!”
三度目の声がひときわ大きく響いたかと思うと、花は茎ごと花瓶を離れ、ヴァネッサへと襲い掛かります。
「きゃぁあ!」
彼女の悲鳴が教会に鳴り響きましたが、それは一瞬で途絶えました。花が彼女の顔を覆い、それ以上、喋る事が出来なくなったからでした。
逃げ出す参列者、オロオロするばかりの王子。そんな光景を見る事もなく、ヴァネッサは顔に張り付いた花を取ろうと必死にもがきます。しかし深紅の花はビクとも致しません。それどころか、花は彼女の頭全体を、完全に覆い尽くしてしまいました。
”く、苦しい。息ができない!”
言葉にならない言葉を発し、ヴァネッサはその場に崩れ落ちます。辺りは静まり返り、全てが終ったかのように見えました。
「ヴァ、ヴァネッサ……」
恐ろしさのあまり、逃げ出す事すら出来なかった王子が、おずおずと彼女の方へと近づきます。
その時、本当の悲劇が始まりました。
ヴァネッサの頭を覆っていた花びらは半分ほど開きましたが、彼女の顔面上部には灰色の仮面がはめ込まれ、血走った目だけがギラギラと不気味に輝いています。そしてゆっくりと立ち上がったかと思うと、美しい花嫁衣装は紙きれのように千切れ飛び、中からはまるで蛮族の戦士の様な出で立ちが現れました。
「ヴァネッサ、そ、それは……」
王子は思わず叫びますが、その言葉が完結する事はありませんでした。王子のノドから大量の血が噴き出します。どこからか現れた剣を持ったヴァネッサが、王子の首をかき切ったのでした。
血の海に沈む王子をチラリと見やった化け物は、その場で呪いの言葉を無数に吐き出します。声は国中へ届き、そこかしこにある全ての花が深紅の花に変わりました。そして近くにいる人々に襲い掛かり、彼らはヴァネッサと同じ姿になりました。
ここで処刑前夜、牢での会話をお教え致しましょう。
「私の願いは……」
フローラが、口を開きます。
「数百年前、この地を支配していた蛮族は、見た目は大変美しい深紅の花を栽培していたらしいの。その花は人を狂気に導く花粉をもっていて、戦いの時、兵隊はそれを帽子のようにかぶったそうよ。そうすれば、殺戮しか頭にない最高の戦士が出来上がる」
悪魔はニヤニヤしながら、フローラの話に聞き入りました。
「その花を、私の花壇に植えてちょうだい。欲深いヴァネッサは、必ずそれを我が物として大切にするわ。そして見栄っ張りの彼女は、王子との結婚式の時、それを皆に自慢するに違いない。その深紅の花で、彼女を狂わしてほしい」
捕らわれの貴婦人は、呪いに満ちた目でそう言います。
「わからんな。恨みを晴らすのなら、単にお前や家族を陥れた連中を殺すって願いでも、いいんじゃないのか?」
悪魔が、ふとした疑問を口にします。
「あなには、理解できないでしょうね。でも、私は全てを奪われた。だから彼女自身の手で、全てをぶち壊してほしいのよ」
それでも悪魔には今一つピンときませんでしたが、このまま聞けば、せっかくの彼女の美しい魂がドンドン汚れていくと気がついて、それ以上は何も尋ねませんでした。
さて、話を元に戻しましょう。
ヴァネッサと同じ姿になった狂気の徒たち。彼らは目に入る者、全てを手にかけて行きました。
え? 深紅の花は、単に人を狂わせるだけの役目しかないのだから、姿が変わったり剣が現れるはずがない。ましてや国中の花が、全て深紅の花に変わるなんて有りっこないですって?
その通りです。ですが、いたる所で行われている惨劇を、優雅に眺めていた悪魔は、心の中でこうつぶやきました。
「願い事には含まれていない、多少の手助けはしてやったが問題ないだろう。その方が、俺にとってはより多くの魂が手に入るわけだしな。まぁ、これがサービス精神ってもんよ」
そして彼の目論見通り、国は滅び、多くの魂が悪魔の手へと渡りました。隣国の異変に気づいたその国の王が、彼の地へと調査団を派遣しますが、彼らの目に映ったのは、累々と積まれた憐れな死骸の山と、その傍に美しく咲いている深紅の花だけでした。
【終】