第四十九話 日輪
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壊れた。
世界が壊れた。
いつ頃だっただろうか。15かそれぐらいの頃の話だったか。
淀んだ寒空に赤が混じり、幼き日の雪原は怪物が跳梁跋扈する地獄となった。
「ハッ、ハッ……!」
廃墟の影で足を止め、上がりきった息を排出する。
逃げていた。
死にたくないから。
逃げ場など、もうどこにも無いのだとどこかで分かっていたのに。
人類圏は戦争の中で縮退と縮小を続けていた。
その外端となる町が防衛線として苛烈な戦場となり、戦火に呑まれて地図からその姿を消す。
繰り返される滅亡。
その番が、俺の住む街にも降り掛かってきただけの話。
「はぁ……グ」
息は整った。整ったことにする。
立ち上がって銃声と硝煙の香、悲鳴と絶叫の中を掻き分けて走る。
親と逸れて泣き喚く子供、夫の亡骸を抱きしめて泣く女、迫りくる暴虐に慄くばかりの老人。
彼らを見捨てて、走った。
ごめんなさい、ごめんなさい。
俺ではどうすることもできない。あなたたちをたすけることは、できない。
己の命が惜しいから、見知った顔すら振り捨てて走った。
どこまでも、生き汚く。
靴が脱げて、それでも無視して走るものだから瓦礫の細片が足に刺さって血が流れていた。
ジクジク、ジュクジュクと痛む。
逃げ惑った足跡が、血の轍となって俺にピッタリと付いてきていた。
瓦礫に変貌を遂げた見覚えのある角を曲がる。
「ああっ!あんた!」
幾千回、幾万回となく聞いた、腹の底から安堵が湧き上がるような声がした。
あぁ、母だ。この辺りはそう言えば職場だったか。
だいじょうぶ、母と会えた。きっともうだいじょうぶ。父はここにいないけど、ここを生き残ればまた会える。そうしてこの戦場から抜け出して、みんなでまた――
そう思って横を見る。
声の主は、肩から下が瓦礫に埋没していた。
見える範囲でも、服の各所に赤い滲みがあったが、量は致命的なほどではない。引っ張り出せれば、助かるかも知れない。
だが、わかってしまった。
「あ、あぁっ…ああ……」
「助けて……!」
母を助ければ、恐らく俺は殺される。
瓦礫はがっちりと母の体に食い込み、俺の膂力では一朝一夕で引き抜くことはできないだろう。
そして、視界の端には、赤く濡れそぼった怪物がいた。
引き抜いている間に感づかれれば、もうどうする事もできない。
なにより、傷ついた母を庇いながらこの戦場を脱する事など、到底できる気はしなかった。
どこまでも、誰よりも慣れ親しんだ声で絶望が訴えかけられる。
全身を流れる血液の感覚はなくなり、胃の底からグラグラと食道に向かってこみ上げて来るものがある。
視界が滲んでぼやける。母の顔もはっきりとはしない。それでも、眼窩の雫を外に垂らしてはいけないと、昏い熱に浮かされた脳でなんとなく思った。
そうして、俺は窮状を訴える心を歯を喰い縛って押さえつけ。
静かに首を横に振った。
母の顔が大きく見開かれる。
そのまま何かを告げようとして、彼女の体は上から降り注ぐ燃える瓦礫の下に埋もれた。
人体を焦がすに足る灼熱が彼女の体を包みこむ。
タンパク質が変質する嫌な匂いが漂った。
今際の顔も、末期の絶叫すらも、即席のオーブンが蒸し焼きにしてしまう。
今際の際、彼女は俺を、呪っただろうか。
そうしてまた、走り出した。
"生きなければ"と思った。
自分の無力と浅ましさ故に多くの命を踏み台とし、その上に立つ俺は、最早そう軽々にくたばる事は許されないだろうと思った。
血河を越え、屍をまたぎ、数多の廃墟を踏破して。
そうしてそこで、逃避行は終わりを告げた。
進んだ先、死角から怪物が突然現れた。
事前に気づくことも、迂回することもできなかった。
「グぅルぅオぉォ!」
死の爪が、心臓を奪い去らんと胸元に伸びる。
「あっ、ああああッ!」
情けなく叫んだ。
みっともなく地面を転がり、恐ろしい速度の刺突を躱す。
爪が着込んだダウンジャケットの上から肩を掠め、白い布地と赤い血潮が飛び散った。
焼け付く様な痛み。だがまだ腕はくっついている。
無我夢中。奇跡と言う他無い回避だった。
だが、奇跡は二度は起こらない。
もう一度躱せと言われてもできる気はしないし、何より無理な回避で足首をくじいた。もうまともに立って歩くことすら危ういだろう。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
死にたくない。死ぬわけにはいかない。
ここで死ねば足元の皆に顔向けができない。そんな事は許されない。
だが、もう、どうにもならない。
「あぁ……ぁ、やめ、て。やめろォォォォォ!」
振り下ろされる断罪の爪に恐怖と絶望の咆哮を上げたその時。
風が凪いだ。
遅れて銃声が喚き、敵の注意が逸れる。
頑丈極まる甲殻を貫徹する事は無かったが、一瞬の隙ができた。
敵を怯ませた謎の闖入者は、そのまま俺の首をひっつかんで抱えて後ろに下がる。
「こちらクスィー・フォー!生存者を確保!男性!年齢十代前半と思われる!あぁ、こちらも退却する!」
胴間声で闖入者がインコムに向かって喚く。
その男は人一人抱えて走っているというのに、驚く程の速さだった。
敵の魔手をかいくぐり、戦線から離脱する。
そうして、安全圏に辿り着いた時、俺を降ろして彼は語りかけた。
「坊主、災難だったな。」
「……うん」
「月並みな言い方だし、何もかも失ったばかりのお前にこんな話をするのは酷かもしれんが……
力が欲しいか?」
その瞬間、伏していた目がひとりでに開くのを感じた。
あぁ、そうだ。
俺に奴らと戦うだけの力があれば、みんなをたすけられた。
俺に瓦礫を持ち上げる力があれば、母を見捨てずにすんだ。
俺が必要なのは、俺が欲しかったのは力なのだ。
守るための、戦うための、殺すための力。
「あぁ、欲しい。喉から出る程。」
答えた瞬間、上から手が差し伸べられた。
大きく、ゴツゴツした手。
太陽を背負う男の立ち姿が、どうにも眩しくて目を細めた。
「決まりだな、みっちり鍛えてやる。坊主、名前は?」
「ユーリー。ユーリー・アヴェスターだ。」
◆
「……ッ、ハ」
記憶から覚め、灰混じりの息を吐いた。
……助からないな、これは。
自分でも驚くほど穏やかな気持ちで、それを受け入れた。
至近距離で二発の爆破を喰らった装甲は粉々に砕け、爆炎で皮膚と中身が焼き爛れている。
被弾箇所には左脇腹と左胸、二つ大きな風穴が開いている。心臓は辛うじてやられてないが、左肺がグチャ味噌だ。少しの呼吸でも激痛が走る。
自ら切り落とした左腕の切断面からはもう血が流れることはなかった。
傷口が焼き塞がったか、それとも流れる血がないか。
答えがどちらでも、迎える末路は変わらないだろう。
薄れゆく意識の中、己の生涯を顧みた。
目の前の死から逃げ回り、戦うために軍に入り、脇目も振らず走り続けた。
新兵になってから血反吐を吐くほどの訓練の果て、「наказание」の名を背負う精鋭にまで上り詰めた。力を、得た。
そしてその果て、信頼できる仲間を失い、あれだけ惜しかったはずの自らの命すら失おうとしている。
欲しかったものは全て、指の隙間から零れ落ちていく。砂の山のような、人生だった。
「おい、ユーリー!ユーリー!……ッ!」
「ァ……?」
声を聴いた。
遠く成りゆく聴覚の中、だれかが俺の名を強く呼ぶのを感じる。
「坊、主か……」
「そうだ、俺だ!分かるんなら立てよ……ッ!まだ、聞きたいことが……ッ!」
悪いな坊主。
そりゃ無理だ。
お前も薄々わかってるんだろ?
「坊主、手ェ、出せ……」
おずおずと右手を差し出してくる。
「これは、さっきくすねて来た高濃度塩酸の瓶だ。奴の傷口にでも、ぶちまけてやれ……動きが鈍る程度は、するだろ……」
残された右手で、小瓶を渡す。
たかがこれだけの文字列を喋るだけで、全身が悲鳴を上げ、意識が体から消え失せそうになる。
まだだ。まだつなげ。戦い方なんざより、言うべきことがある。
奴があの時の俺と同じなら、噂通りにその異名を忌まわしく思う者ならば、きっとまた自らを苛む。きっとまた自らを呪う。俺と同じ、轍を踏む。
瓶を渡した右手で、強く彼の手を握りしめて。
「坊主……いや、サワタリ・ケイ。
――あとは、任せた。」
「……あぁ」
戦闘の余波で天井が砕け、日の光が覗いている。
太陽を背負い、横たわる俺に手を差し伸べる姿が、あの日の恩人と重なって見えた。
あとはそれきり。
無明の闇の中へ。最後に残ったものだけを抱えて、落ちていった。




