死にたいのか?
「多分この辺にあると思うんだけど……」
水音がしているのはおそらくこの辺りだ。僕の直感と耳に聞こえてくる音がそう言っている。そんなことを思いながら、草木をガサガサと掻き分けて道なき道を進む。
――サラサラ、チャポン。
やがて水音がはっきりと聞こえてきた。それと同時に視界が一気に開ける。よし、やっと開けた場所に出られたな。
「……おぉ」
そう思ったのも束の間、思わず感嘆の声が漏れた。それほどまでの絶景が僕の目の前に広がっていたのだ。
僕が今いるのは、簡潔に言うと大きな洞穴の中。その入り口の場所だ。
目の前に広がっている光景の中にあるのは僕の予想していた川などではなく、水がエメラルドグリーンでとても透き通っている神秘的な湖だった。その湖を囲むように草や花、苔などが地面いっぱいに生い茂っていて、素足で踏んだ感触はとても心地よい。また、ここら一帯はドーム状に岩肌で囲まれていて、僕が今入ってきた場所ともう一か所天井に大きく穴がある。その天井の穴から差し込む陽の光は湖を眩く照らしていて、非常に綺麗だ。一本線の陽の光が直線的に湖に差し込むことで、より目に映るこの景色を絶景たらしめていると思う。
こんなに綺麗な景色があることも、景色を見て綺麗と思う心が僕にあることも知らなかった。
「……」
この景色にすっかり見とれてしまった僕は、暫くの間ぼーっとこの景色を眺めていた。
「……あっ」
ハッとした僕は、気持ちを切り替えるために頭を軽く振る。
さて、ここを見つけるための探索でさらに汚れてしまった身体や服を早速洗うとしよう。うん、そうしよう。
自身の目的を達成するために、湖の所までゆったりと歩いて向かうことに決めた僕は、今突っ立っているこの場所から一歩前に踏み出した。
「ガルルルル」
ん? 何か獣の唸り声のようなものが聞こえてきた気がする。何だろうと思った僕は、音がした方向に目を向けた。
そうして僕の目に映ったのは、黒くて大きい狼のような動物。
……はて? 先程まであんな動物は、ドーム状に囲まれているこの場所にいただろうか? 嫌でも視界に入る大きさをしている黒い狼だ。僕はここら一帯をざっと見渡している。暫くの間見とれていた程だ。今までずっとそこにいたと言われるよりも、今突然そこに現れたと言われた方が、まだ納得がいく。
いや、僕が納得できるかどうかは今はどうでもいい。そんなことよりももっと、今現在重要視しなければならないことがある。それは、その狼が赤く鋭い目で僕のことを睨みつけていることだ。明確に僕のことを威嚇しているご様子。この場所にもう一歩でも踏み入れたら殺すって感じの顔をしている。
……ああ、そういうことか。
僕はとある仮説が浮かび、自分の中で勝手に納得する。
おそらくここは、この狼の縄張りなのだろう。
うーん、どうしようかなぁ。多分ここからすぐさま立ち去るってのが最善の選択なんだろうけど、何故だろう? 僕の心の奥底にある何かがそれを強く拒んでいる。
どうしてだろうか。不思議なことに恐怖心のようなものは微塵もなく、むしろ今の僕の心の中を隙間なく埋め尽くしているのは闘争心のみ。
やがて奥底から湧き上がってくる自身の戦意に対して我慢が効かなくなった僕は、思うがままの自身の心に身を委ねた。
「……なあ、お前」
一歩前に踏み出し、僕は狼にそう声を掛ける。
「死にたいのか?」
そして、狼に向かって威風堂々とそう言い放った。
「ウオォォォォン!」
僕の挑発に対して、狼がその挑発に乗ったとばかりに大きく咆哮をあげる。よしよし。
――パラパラ、パサパサ。
それによって地面が揺れ、地響きが起きた。脆くなっていた岩肌の、小さく砕けて付着していただけの表面部分がパラパラと砕け落ちていっている。僕は今、自身の口角が少しだけ吊り上がっているのが何となく分かった。
何なのだろうか、段々と高ぶるこの気持ちは。僕の知らないこの感情は。
「僕の邪魔をすると言うのならば、僕は容赦なくお前を潰す」
その一言が開戦の合図となり、狼が牙を剥き出しして僕に向かって一直線に勢いよく飛び掛かってきた。僕も狼に向かって一直線に突き進む。
「ガルゥゥゥウウ!ガウ!ガァルゥウウ!」
狼は右前足の鋭い爪で僕に切りかかってきた。僕はそれを自身の左腕のみで受け止め、すかさず狼の腹に向かって右脚で蹴りを入れる。
「どっせいっ!」
僕はそのままの勢いで思いっきり狼を蹴飛ばした。
「キャンッ!」
おそらくだが、狼は今の一撃で勝負を決めるつもりだったのだろう。突然襲い掛かってきた反撃に全く対応しきれず、僕が蹴飛ばした勢いのまま背中側からドシンッと音を立てて壁にぶつかった。
――バッシャーン!
狼はそのまま大きく水しぶきを上げながら湖に落ちる。
「……ん?」
水しぶきが止んだ時、狼の姿は既にそこには無かった。どこに行った? 狼が沈むほどの深さはこの湖には無い。精々、今の僕の腰ぐらいまでの高さだ。あの狼は明らかに僕よりもでかい。つまりは、少し目を離した隙に見失ってしまったってことになる。右、左と確認するものの何処にも見当たらない。全く気配を感じられないし、足音すらしない。
「ガァァアルゥァァアア!」
突然真後ろから狼の声が聞こえてきた。
「……!」
咄嗟に反応した僕は、左脚を軸に身体を捻りながら、目視で確認するよりも先に、真後ろに向かって右脚で素速く蹴りを繰り出す。
「ガッ!」
直感で放った僕の回し蹴りは、今まさに僕のことを噛み砕こうと大きく口を開けて突撃してきた狼の顔に真横からぶち当たった。
「……ふぅ」
僕は小さく息を吐く。危うくあの鋭い牙で食い千切られるところだった。
「……あれ?」
どうやら僕の方も無傷とはいかなかったらしい。左腕からぽたぽたと血が零れ出ていた。別に深い傷ではない。薄皮一枚といったところだろう。軽傷だ。一体いつの間に傷を負わされたんだか。
「まあいい」
僕は一呼吸置き、唱えた。
「武器生成」
さあ、さっさと終わらせるとしよう。この戦いを。
「大剣」
そして、この戦いに終止符を打つための魔術の詠唱が完了した。創り出されたのは魔力の塊でできた大剣だ。
自身の魔術に満足した僕は完成した大剣を両手で持って自身の前に構える。そして、全速力で狼に向かって一直線に走り、一瞬にして狼に肉迫した。
「僕の勝ちだ」
僕はたった一言、そう呟く。
「……ッ!」
僕は既に狼の懐付近まで潜り込み、真下から狼の首に大剣の刃を当てている。狼が少しでも何かしようとすれば、僕はすぐに狼の首を斬り落とせる状態だ。対して狼は右前脚を振り上げているだけ。まだ、爪で僕を切り裂くための準備動作の段階だ。まあ、この速度の突撃に対して咄嗟に反応できただけでも十分凄いと思う。だがしかし、現実は実に無情だ。狼が爪を振り下ろすよりも先に、僕は確実に狼の首を斬り落とすことができる。まさに勝負ありの状態だ。
「……」
狼もそれを悟ったのだろう。何も言わずに、止まっていた右前脚をそっと地面に下ろした。どうやら戦意を喪失したらしい。この状況に対して抵抗するような気配を微塵も感じられない。殺るならさっさと殺れと、そう僕に訴えかけているように感じる。
「……えっ」
何……だ? 急激に頭がくらくらして、意識が朦朧としてきた。徐々に視界が霞んでくる。足元がおぼつかない。どうしようもない脱力感が僕を襲う。一体……どう、して?
理解する暇もなく、狼の命を刈り取らずに僕は意識を失った。