空を思い出す
思った以上に沢山の方にこの作品を見て頂けているようで、私感無量です。誠に有難うございます。
落下死、という単語を耳にしたことはあるだろうか。僕は多分、テレビのニュースの報道でその単語を知ったんだと思う。落下死とは文字通り、高所から落下した衝撃で身体の重要器官を損傷するなどして死に至るというものだ。
身近にあるようで、身近には感じられない死因。その内の一つが落下死だと思う。まあそれは一旦置いておくとして、その落下死という死因について僕はとある噂を耳にしたことがある。それは、落下中に意識が無くなるというものだ。ちなみにそれをどこで耳にしたのかは忘れた。それをどこで聞いたのかなんて、いちいち覚えておく必要は無いと思ったからね。
まあ、その噂の真偽は正直どうでもいい。僕はそれが本当かどうかよりも、気になったことがある。それは、バンジージャンプやスカイダイビングについて。
一見それとこれに何の繋がりがあるのか疑問に思うだろう。だが、よく考えてみてくれ。落下という点においては、どちらも同じじゃないか。もし仮に噂を真としたら、人は何故バンジージャンプで意識を失わないのか、僕は疑問に思った。まあ中にはバンジージャンプで意識を失う人もいるだろうが、それは考えないものとして。
おかしいと思わないか? よし、分かりやすいように言おう。高所から落下した場合、人は必ず意識を失うと仮定する。その場合、バンジージャンプやスカイダイビングをしている最中に人は必ず意識を失うってことになる。そんな遊びの一体何が楽しいんだって話だ。だってそうだろう? それをしている最中は意識が無いんだよ?
だがまあそれは、人が高所からの落下で必ず意識を失うと仮定した場合の話だ。実際のところ、遊びで行う落下では大多数の人は意識を失わないらしい。面白いよな。一本の紐が腰に巻き付いていたり、空気抵抗を大きくできる布を持っていたりするだけで意識を失わないって。
つまり人は、ビルの屋上からの落下などでは意識を失い、遊びでの落下では意識を失わないってことだ。果たしてこの二つの違いは、一体何なのか。一応考えてみた結果の僕なりの答えはもう既にある。それは、安全かどうか。命の危機を感じているかどうかだ。要するに、当事者の気持ちの問題だと僕は考えている。まったく、笑える話だよな。
さて、こんな話をして結局僕は何を伝えたかったのか。それは、どうやら僕は安全じゃない落下でも意識を失うことはないらしいということ。え? 何故そんなことが分かるのかって? それは、今現在僕は紐無しバンジージャンプ中だからだ。
ああ別に僕は、自ら落下しようと思って落下している訳ではない。欠伸をしながら歩いていたら、たまたま目を瞑ったタイミングで足を踏み出した先に地面が無かったのだ。要するに前方不注意。間抜けだなぁ、僕。当然命綱なんて握ってないし、パラシュートなんて持っていないただの落下だ。
何故僕は落下しているのにも関わらず、意識を失っていないのか。それはおそらく、今のこの状況に対して僕自身が全く恐怖していないからだろう。勿論、ここからどうにかして助かる方法を都合よく思いついている訳ではない。このまま重力に従って落ちるだけだ。だというのに、恐怖心どころか焦燥感すら無い。
恐怖心が芽生えないのは何故なのか。この状況を命の危機と感じていないのか、それとも命を失うことを危機と感じていないのか。おそらく後者だろう。
――ボスン。
「……けほっ、けほっ」
煙い。舞い上がった砂埃のせいで咳が出た。あ、目にもちょっと入ったらしい。少し涙が出てる。
……おや? どうやら僕は助かったらしい。見える範囲で自身の身体を見渡してみたが、傷や痣といったものはどこにも見当たらない。単なる感覚だが、おそらく骨折などもしてないと思う。だがしかし、純白だった服は、土埃によって少し汚れた。綺麗だったのに、ちょっと残念。
おかしいなぁ。確実に死にそうな高さから落ちたと思うんだけど。そう思った僕は僕が足を踏み外した地点を見上げてみた。
目算だが、ビルの十五階分ぐらいの高さはあるんじゃないかな。運良く死ななかったとしても骨折ぐらいはしているはず。別に、何か衝撃を緩和するものを下敷きにしていた訳でもないらしい。今僕がぺたんと座っているのは、何の変哲もないただの土の上だ。なんならちょっと固い。うーん、何で僕は無事なんだろうか?
「……ま、いっか」
考えても分からないものは分からない。そう思った僕は、今のこの状況をものの数秒で受け入れた。
うん、無事なら無事で良かったじゃないか。別に死にたいわけでもないし。とりあえず立ち上がった僕は、身体や服に付いてしまった土埃を軽く手でパンパンと払った。
それにしても、今日は不思議な事だらけだ。こんなに大量の不可思議が一気に押し寄せてくると、なんていうか、その、うん、疲れる。
何となく僕は、今日の不可思議体験を一度頭の中で羅列してみることにした。
見知らぬ大自然の中で目が覚める、見覚えのない女性用衣服を着用中、性転換、見たことのない植物、角の生えた兎、落下で怪我一つない身体、謎の声エックス。
……あれ? 謎の声エックスってなんだっけ? うーん、あと一歩のところで思い出せない。例えるなら、魚の小骨が喉に刺さってしまった時みたいな、そんな感じだ。
――バサバサッ。
木々の揺れる音がして、何気なくその音がした方向を見る。すると、色鮮やかな鳥が飛びったって行くのが見えた。それによって必然的に僕の目に映った空は、とても綺麗に青く澄み渡っていて――。
「……いい、天気」
思わずそんな言葉が自然と口から零れ出た。
ん? 何だか直近に同じようなことを呟いたような……。
――ああ、そうだった。思い出した。
お気に入りの場所で突然聞こえてきた謎の声。それを僕はとりあえず、謎の声エックスと呼ぶことにしたんだった。そいつの姿は結局最後まで見えなかったし、誰なのか見当もつかないままだ。
謎の声エックスについて粗方思い出したことで、あの時の光景が鮮明に脳裏に蘇る。
あの時声が聞こえてきた後、僕は吐血した。それも大量に。おそらく致死量だったと思う。結局、何故突然大量に吐血したのか謎のままだ。あれは何だったのだろうか。……。うーん、分からん。もう何だっていいや。
僕は、考えても分からない事は考えない主義なんだ。だって無駄だし。……まあ、要するに考えるのが面倒くさい。面倒な事は嫌いだ。
さて、これからどうしよっかなぁ。もうここがどこなのかとか正直どうでもよくなってきた。そこそこの距離歩いて疲れちゃったし。
――サララララ、チャポンチャポン。
そんなことを思っていると、川のせせらぎのような、水の流れる音がどこからか聞こえてきた。きょろきょろと周りを見渡してみる。あれ? とりあえず目に見える範囲には無いみたいだ。でも、近くに水があるのは確実だと思う。多分だけど川があるのかなって感じ。
あ、そうだ。もしそこが綺麗な川だったら、そこで身体や服を洗うことにしよう。さっきの砂埃によって結構汚れちゃったし。一応手で軽く払ったものの、何だかまだ身体中がザラザラしていて気持ちが悪い。何となく服も綺麗にしたい気分だ。だって、この服ちょっとだけ気に入ってるし。どうせなら綺麗な方が良い。
よし、そうと決まれば早速向かおう。
僕は目を瞑って、聞こえてくる水音に耳を澄ませる。そうして大体の方向が分かった僕は、そのおそらく川か何かがあるであろう場所にのんびりと向かうのだった。水が透き通っている綺麗な川だと良いなぁ、という願望を胸に抱きながら。