7話 不思議なオカリナ
翌朝、隣国からの迎えを知らせる大声でソフィアは目覚めた。部屋の外で声を張り上げる伝達係は地獄からの冷酷な使いだ。
「ソフィア殿下にご報告申し上げます! リエーヴ王国からの奉迎団が到着いたしました。王の間にて、お待ちいただいております! 引見のご準備をと、国王陛下からご伝言を承っております!」
宮殿中に響き渡るのではないかと思うほどの大声でこの文言を繰り返すのである。まるで、壊れたカラクリ人形のようだ。寝ぼけ眼のソフィアを置いて、ルツが応対してくれたおかげでやっと静まった。
「どうしよう? もう来てしまった……あと、二、三日あるって、聞いていたのに……」
「ひとまず、身支度をいたしましょう」
ルツは洗面器に水を入れ、ソフィアの髪を束ねる。ソフィアは心ここにあらずの状態で顔を洗い、着替え始めた。
(そんな……まだ心の準備が……ルツともうお別れなの?)
ソフィアの心のうちを感じ取ったのか、ルツはギュッと抱きしめてくれた。ソフィアは身長百七十センチを超える長身だから子供のころのようにはいかず、抱きつかれている体になる。
こぼれる雫はルツの白髪を濡らした。これから、奉迎団と会うというのに涙が止まらない。ルツと離れたら、ソフィアは本当に一人ぼっちになってしまう。
だが、別れを惜しむ時間すら、ソフィアたちには残されてないのだった。ルツはスッと身を離すと、しゃがれていても芯の通った声を出した。
「ソフィア様にお渡しする物があります」
自分の小部屋に戻り、ルツが持ってきたのは紫の木綿にくるまれた塊だった。
柔らかな木綿にくるまれていたのは両手のひらサイズのオカリナ。見た目はなんの変哲もない黒光りするそれを、ソフィアは手にとってみた。ズッシリと感じるのは、まとう冷気のせいもある。底に文字が刻まれている。この国の言葉ともちがう楔形文字をもっと簡易にした感じ……
「正義と書かれております。古代の覇王が持たれた物でございますじゃ。婆のひいひい爺様が先王から授かり、ずっと守ってきた宝でございます」
「そんな大切な物をわたくしに?」
「ソフィア様だからこそ、お譲りしたいと思ったのですじゃ。どうかお納めくださいませ」
「ありがとう」
ソフィアはソッと口に当ててみた。前世では吹奏楽部だった。担当はフルートだったが、オカリナはコンクールの時にちょっと吹いたことがある。有名なあの曲なら吹けるかもしれない。
音は割と簡単に出た。まずドレミファソラシド。手入れされていたようで、音程も狂っていない。早速、コンクールで銀賞を取ったカノンを吹いてみた。
(わぁ……懐かしい。王女になって楽器も習わされたけど、ハープとかピアノだったな。わたくし、やっぱり管楽器のほうが好きかも)
重奏ではないから、音の清廉さがより伝わってくる。キリリと冷たい空気を震わせる音が耳に心地よかった。純粋な音というのは五感を刺激する。猫に与えるマタタビのように気持ち良くする効果があった。ソフィアはしばらく恍惚と演奏した。
我に返った時、ルツのしわしわの顔が少し若返ったように見えたのは気のせいか。優しいお婆ちゃんではなく、凛々しい戦士の顔をしていた。くわえて、そのルツの前にネズミが数十匹ちょこんと並んでいるのを見て、ソフィアは腰を抜かしそうになってしまった。
「ねっ、ネズミッッ!?」
ルツは「しぃーっ」と人差し指を口に当てる。戦士の顔からまた優しいお婆ちゃんの顔に戻った。
「そのオカリナには不思議な力が込められていますのじゃ。永続的な物じゃございませんが、当面はソフィア様の力になれると思います」
「このネズミたちはどうすれば?」
「帰るよう音で指示を出されれば、引っ込みますのじゃ」
そこまで不潔そうでもなく、かわいらしいネズミたちである。目をキョロキョロ動かしているのは指示を待っているのだろう。ソフィアは「帰って」と念じながら、単純に“ドシラソファミレド”と吹いた。すると、ネズミたちはワァーーッとベッドの下へ走っていく。壁に穴があり、そこから出入りしているのかもしれなかった。
「ハーメルンの笛吹き男みたいね! すてき!」
「ハーメルンなんたらは存じませぬが、婆もソフィア様に長年黙っていたことがございます」
「このオカリナのこと?」
「ええ。このオカリナには婆の力が込められておりますのじゃ。ネズミはしもべ。情報収集にすぐれております。なにかあった時は必ず、婆が助けに参りますのじゃ」
「ありがとう……」
また、泣いてしまいそうになり、ソフィアはグッとこらえた。これでは顔を洗った意味がない。それにルツはソフィアの泣いている顔より、笑っている顔を見たいはずだ。本来ならルツが亡くなるまで面倒を見るのが主の役目であろう。しかし、ソフィアは人質として隣国へ連れていかれる身。こんな不甲斐ない主に対して、ルツは助けに行くとまで言ってくれた。最後の最後まで世話になりっぱなしだった。
けたたましくドアを叩く音が聞こえ、ソフィアはビクッとしてから切り替えた。
「ソフィア殿下に申し上げます!! 国王陛下が……」
「わかったわ。今、行きます」
笑顔をルツに向ける。ソフィアは大切なオカリナをソッと行李の中にしまった。
王の間にはソフィアを迎えに来た奉迎隊の面々を騎士たちが囲み、物々しい雰囲気だった。まだ、隣国とは戦争中だったのだと、改めて認識させられる。
髪結いの時間はもちろんなく、ソフィアはいつものボサボサ頭にグレーの普段着スタイルである。目立つ赤毛がなければ、絶対に使用人と間違えられていただろう。母のイレーネ王妃がいなかったのは幸いだった。父王はソフィアの姿に眉をひそめただけだ。
「ソフィア、遅いではないか。旅支度はもう終わっているのであろうな?」
「はい、お父様」
大勢の兵士や騎士を前に気後れしても、ソフィアは精一杯虚勢を張ることにした。背後で控えているルツに、心配をかけたくないという思いが強い。
「こちらの事情で申し訳ないのだが、おまえにはすぐさま発ってほしい。イレーネとルシアに挨拶を済ませたら、宮殿の外で待たせている馬車へ向かうがよい」
(要はこういうことね? 敵国の者を滞留させたくないから、とっとと出ていけと)
「お母様とルシアへの挨拶はもう済ませております。このまま参りますので、荷物を運ぶ下男を手配していただきとうございます」
ソフィアは嘘をついた。本音を言えば母にもルシアにも、もう会いたくはないのだ。
「じゃあ、行ってこい。父はおまえの成長を嬉しく思うぞ。抜かりなくな?」
(抜かりなくって……これから嫁入りする娘に言う言葉かしら?)
最後まで自分を物のように扱う父をソフィアは笑った。気が狂ったと思われただろうか? 不気味だと、魔女のようだと言われる赤い目で見据えると、父王は目をそらした。ソフィアはそのまま視線を整えられた口ヒゲから二重顎、突き出た腹へと移す。好きな所が何一つなかったと再確認した。
「それでは、失礼いたします」
最後ぐらい堂々としていたって、いいじゃないかと思う。妹の影に隠れ、ひっそりと目立たないように生きてきたのだから。みすぼらしい格好であってもソフィアは背筋をピッと伸ばし、王女の名に恥じぬ振る舞いで王の間を出て行った。