61話 お別れ
主殿前の中庭にリヒャルトはいる。中央に噴水があり、その周りは花壇、芝生で覆われていた。ピンと立つひまわりは元気よく笑っているようだ。噴水は止まっており、水音と思われたのはすすり泣きやささやき声だとわかった。家族との別れを惜しむ騎士たちで、芝生の緑は見えない。
たくさんの人が集まっているのは、最後の見送りをするためだろう。泣いたり笑ったり、忙しい人たちはソフィアの気配に気づかなかった。ソフィアは階段から見下ろし、リヒャルトを探した。主殿を出てすぐの馬蹄型階段は大きくカーブを描いて中庭につながっている。
(あっ! いた!!)
従者たちを控えさせている他は、そばに誰もいない。甲冑に身を包んだリヒャルトは一人、寂しそうに佇んでいた。彼がいるのは、家族と抱き合ったり仲間と歌ったりする人たちから離れた中庭の端である。ソフィアは階段を駆け下りそうになり、自制した。もう、王女や公爵夫人の時とはちがう。ソフィアは王妃。しかも妊娠している。ルツと同じ速度で悠然と下りた。
階段を下り終わるころには騎士やその家族たちもソフィアに気づき始め、ひざまずき道を開けた。グーリンガムの王女だった時とは大違いである。存在感のないソフィアは使用人と間違えられることもあった。今は充分すぎるほど、貴人として扱われている。
ソフィアは通り道にいる騎士、一人一人に声をかけていった。「ご家族とのお別れはすんだの?」「お子さんは?」「昨日は眠れた?」「いい面構えね」とか、なにげない一言を伝えるだけ。ときおり名前を聞いたり、得意とする武器、帰ってからしたいこと、好きな食べ物を聞いたりした。声をかけられた騎士は頬を紅潮させ、たどたどしい口調で心ここにあらずだったり、感激してうわずった声で返答していた。
出陣式に顔を見せられなかった、せめてもの罪滅ぼしだ。国のため、命をかける彼らにソフィアは少しでも元気を分けてあげたかった。王妃からの声がけというのは、騎士たちには重要な意味を持つ。ソフィアの場合、鼓舞より精神面のサポートが目的である。おかげでリヒャルトのもとにたどり着くのが、すっかり遅くなってしまった。だが、それで良いと思った。
リヒャルトから三メートルほど離れた位置でソフィアは止まった。
自分のもとへすぐに行かず、騎士たちを気遣うソフィアの姿をずっと眺めていたのだろう。王妃としてのソフィアを高く評価する一方で嫉妬心を抱く。銀の目は憂いを帯びていた。風になびく銀髪から爽やかな香りが流れてくる。ソフィアを見つめるその顔は外向きではなく、二人きりのときのように甘ったれていた。本当はソフィアがいないとダメな弱い存在。そんな彼が自ら戦いに出向く。愛するこの人を窮地へ追いやったのはソフィアだ。
今にも泣き出しそうな彼から目を離さないまま、ソフィアはルツに命じる。「持ってきたそれをちょうだい」と。一振りのダガーを手に取った。
これは結婚した時に頂いた装飾品だ。ときどき、果実を採るのに使ったり、肉を切り分けたり、紐を切ったりするのに使う。実用品ではない証拠に、柄と鞘に色とりどりの宝石が埋め込まれていた。実家からはなにも持たされなかったが、リエーヴの貴族からはさまざまな贈り物をもらっていたのである。
渡されるやいなや、ダガーを抜刀したためリヒャルトは動転した。
「そ、ソフィア!! 何をするんだ! やめろ!!」
ソフィアは素早く、ダガーを首のうしろに移動させた。一片の躊躇もない。あらかじめ、しようと決めていたことだ。久々に使用されるダガーは陽光を反射してきらめいた。鞘は乾いた音を立てて地面に転がる。
リヒャルトが走り寄った時にはもう終わっていた。ソフィアの左手には赤い髪の束が握られている。今朝、編んでもらったばかりの三つ編み。襟足から下をバッサリ切ったのだった。
「なんてことをするんだ、君は……大切な髪が……」
髪は女の命。女性の象徴である。この世界の女性は皆、髪を長く伸ばしており、短いのは尼僧ぐらいのものだ。女性が髪を短く切ること、それは女であることを捨てるのと同義だった。
「あなたが戻られるころには多少伸びているでしょう。わたくしが女でいるのはあなたの前でだけ……さあ、これを……」
ソフィアは髪の束をリヒャルトに差し出した。リヒャルトはすぐに受け取ろうとしない。
「あなた、わたくしの赤毛を好きだと、おっしゃってくださいましたね? わたくし、とっても嬉しかったのです。だから、戦地へ持っていって。わたくしの髪をあなたのお守りにして……」
リヒャルトは返事をせず、ソフィアを抱きすくめた。冷たい甲冑越しでもわかる。彼の鼓動、呼気、匂い……それらすべてを全身で感じる。ソフィアは最後になるかもしれない抱擁に身を任せた。
「ああ、ソフィア……そうするよ。君の髪をお守りにする。君の代わりに抱いて眠るよ。そうだ、自分の髪に編み込んでしまおう。いつでも、君を感じていられるように」
髪を握った手に大きな手が被さってくる。ソフィアは愛する彼のぬくもりをしばし味わった。しかし、いつまでもそうしたいと願うのは贅沢な望みだ。ソフィアは他の者の存在も忘れていなかった。二人きりの寝室以外は公的な場である。タイミングを見計らって、ササッと離れ笑顔を見せた。
「じゃあね、あなた。いってらっしゃい!」
パチパチと拍手が広がっていく。ソフィアたちの様子を見守っていた誰かの妻、恋人たちは涙を流し、騎士たちはその勇気を称えた。王妃が髪を切って覚悟を見せた。この行動は彼らを高揚させたようだった。割れんばかりの拍手のなか、ソフィアは涙をこらえた。最後ぐらい、いい顔で見送りたい。彼には最近笑顔を見せていなかった。それが作られた笑顔でも、大切な記憶として彼の中で生きていてほしいのだ。だから、悠々と笑ってみせる。つらい気持ちを封じ込め、胸を張り王妃の威厳を見せる。
最後は王妃の顔で別れた。