59話 旦那様は男
大事をとって、ソフィアは出陣式への参加をやめた。納得したうえで……ではない。戦地へ向かう兵士たちには申しわけない気持ちでいっぱいだし、自分が嫌になった。吐き気の他はなんともないのだ。いつになく、怖い顔をするルツに逆らえなかったのである。
「今は一番大事なとき。いくら用心を重ねても、やり過ぎにはなりませぬ」
早速、ルツが厨房の人間に手を回してくれ、食事は特別メニューとなった。出陣式のあとの豪華な晩餐も辞退し、夕食は部屋でとる。アルコール、カフェイン類の代わりにハーブティー、酢の物を取り入れ、香辛料、香草はなし。塩分も控えめにしてもらう。そのおかげもあってか、少しだけ食べられた。
晩餐のあとの宴会が長引いているのだろう。リヒャルトは夜が深まっても、部屋を訪れなかった。
目覚めたのは日付が変わったころだろうか。気配を感じるやいなや、ソフィアはリヒャルトに抱きつかれた。酒臭い。
「うぷ……なんなのです、突然?」
「早く君に会いたくて、しようがなかった。体調は回復したのか?」
「ええ。ちょっとした胃もたれです」
妊娠のことはとっさに隠した。こういうことは伝えるまでに準備がいる。なにげなく言っていい内容ではない。
「なんだ、なんともないようじゃないか? 私がどんなに心細い思いで、公務にあたったと思ってるんだ?」
「ごめんなさい」
ソフィアが元気なのを見て、リヒャルトは不満をぶつけてきた。王妃としての責務を果たせなかった負い目があるから、ソフィアは素直にあやまる。しかし、リヒャルトの鬱憤はそれだけでは晴れなかった。
「罰として、朝まで寝かさない。覚悟しろ」
塔の上で愛し合った時のような獣じみた雰囲気に変わった。強引にキスをされ、ネグリジェの中をまさぐられる。ソフィアは小さな悲鳴を上げた。起こしてしまったのだろう。ルツのいる小部屋のドアが振動した。
「大丈夫、なんでもないわ!」
ひとまず声をかけるが、安堵する余裕もない。また唇をふさがれた。リヒャルトは乱暴に服を脱がそうとしてくる。
「や、やめて……優しく……おねがい……」
「ダメだ。今夜は激しくする」
せっかく授かった子を大切に育てたい。ルツの言うとおり今は大事なときだ。だが、男女の力の差は大きい。必死に抵抗しても、ソフィアはあえなく裸にされてしまった。
「あっ……いや……強くしないで……」
「なんだかいつもより、敏感だな? そんなふうに弱弱しく抵抗されては、余計にたかぶってしまうじゃないか? そうか、わざとやっているのだな?」
たしかに皮膚のあちこちが過敏になっている。これも妊娠の影響なのかもしれなかった。覚醒したエロ大魔王は歯止めが効かない。遠慮なく吸い付き、手を弱いところへ伸ばす。ソフィアの理性まで奪おうとしてきた。
情欲か母性か。ソフィアは快楽より愛を選んだ。手のひらを反らせ、勢いをつけて……バチン!! リヒャルトの頬をひっぱたいた。
「やめてって言ってるでしょ!!」
頬を押さえたエロ大魔王は石化する。さきほどまでの威勢良さが嘘のように静まった。与えたダメージはかなりのものだったようだ。
人間、誰しも浮かれている時にこっぴどく叱られたら、意気消沈するものである。リヒャルトも例にもれず。愕然としたあと、世界の終わりかと思うほどに落ち込んだ。暖炉の残り火が照らすなか、首を垂れ背を曲げるリヒャルトは大きな山に見える。
「あなた、大げさに落胆するのはやめて。わたくしが嫌だと言っているのに、全然聞かないから手を上げたのです。あなたのことを嫌いになったわけではないの」
「う……そうなのか? 侍女の存在が気になるのなら、今からでも私の部屋に行って……」
「そういう問題ではありません」
ひしゃげていたくせに、まだあきらめていなかった。場所を変えてもエロを続行しようとする。恐るべしエロ大魔王……。ソフィアは観念することにした。
「あのね、わたくし、まだ体調がよろしくないの。でも、激しくしないのなら愛し合っても構わないわ」
「ほ、本当か!?」
「ただし、やめてくれなかった罰として、わたくしの愛撫に耐えること」
現金なリヒャルトを野放しに喜ばせてはいけない。ソフィアは強烈な罰を与えることにした。リヒャルトはソフィアより、さらに敏感である。首筋や耳、腹、脇、その他いろいろ……舌を這わせると、身をのけぞらせて悶えた。
「ひゃひゃひゃひゃ……や、やめてくれ、ソフィア!……くっくくく……これ以上は笑い死んでしまう!」
「まだ足りません。あんまり大きな声を出したら迷惑ですよ。修練が足りませんね。もっと、こらえなさい」
大きな犬はこれぐらい厳しく躾ないといけない。TPOをわきまえず、性交したがるようになっては困るのだ。だが、いたぶるたけでは卑屈になる。ちゃんと、かわいがってもやる。
「あっ! ソフィア、そんなことを!!」
(言葉に出すのはやめなさい)
リヒャルトが大きな声を出したので、ソフィアは噛みついた。歯形がついたのは、思いがけない場所である──飴と鞭は大事。
緩やかに?……そして存分に愛し合ったあと、ソフィアは横たわり、リヒャルトにうしろから抱きつかせた。バックハグ横向き型。これは非常に落ち着く。
「ソフィア、もう機嫌は直ったかい?」
低めの声が心地よく耳をくすぐる。リヒャルトの右腕はソフィアの頭を支え、左手は腰のあたりにある。このまま、眠ってもいいが、重大な発表をしようかとも思った。
「ソフィア」
声をかけようと思ったところで、先を越された。譲ってやると、彼の大きな手に指を絡ませ伝える。ソフィアのほうはあとがいい。これより喜ばしくて、重大な告白など他にないのだから──
「ソフィア、私は明日発つ」
「は!?」
「兵士たちと戦地へ行く。だから、今夜は無理にでも愛し合いたかった。夜が明けたら、第三軍と一緒に発つよ」
「いけません!!」
ソフィアはリヒャルトの手に爪を立ててしまった。第三軍と? 一緒に発つ!?──国王なのに戦地へ直接、出向くというのか? 戦地がどんなに危険か、わかっているのだろうか?
振り返ると、彼は顔を歪めている。銀の瞳は消えてしまいそうな暖炉の火を反射していた。
「すまない……国王になるまえから行くつもりだった。兄上はこれを懸念して、即位を早めたんだろうね。だが、私は兵士や民だけに血を流させたくはないんだ」
「ひどいひと! わたくしには一人で抱え込むなとおっしゃって、ご自分はどうなのです?」
「すまない……」
「わたくしをまた一人にするつもりなのですか? そばにいてくれるのでは、なかったのですか?」
「すまない……」
あやまり続けるということは、発言を翻すつもりがないということだ。ソフィアはこれまでにないほど激高した。
「もう知りません、あなたなんか! 勝手に戦地へ行って、死んでしまえばいいわ!」
こんな悪態をついても、リヒャルトはひたすらあやまるだけだった。ソフィアはリヒャルトの腕にしがみついて、嗚咽を繰り返した。涙は顎を伝い、彼の腕までビショビショに濡らす。ソフィアは自分がいつ泣き出したのかも、わからなかった。脳は働きを停止し、感情だけが暴走する。愛する人が行ってしまう、自分を置いて──
ソフィアは彼を責め、なじり、自分を嫌悪した。