52話 ケツ顎ピンチ
バニラの件はネイリーズ伯爵に証明してもらえる。ソフィアは潔白だ。
(でも、この世界の裁判って、法律より感情が先立ってるイメージよね。敵国の人間であるわたくしは、どうなってしまうのかしら……)
看守のいる地下牢を思い出して、ソフィアは身震いした。
「では、侍女にはあとで来てもらうので、私はこれで……」
「待って! ジモンさん、お願い……もうしばらく、ここにいて……」
引き留めてジモンが困るのはわかっている。わがままだし、情けない。だが、ソフィアはつかんだ腕を放すことができなかった。心細くて不安で、どうしようもなかったのだ。
厳つい太眉がハの字になる。ソフィアの手の中で硬い腕が弛緩していき、ジモンは上げかけた腰をふたたび下ろした。優しいこの人はソフィアのために居てくれる──ホッとしたのも束の間、階下から足音が聞こえてきた。
「どうしましょう? 誰か来るわ!」
「ご心配なく、侍女のルツ殿と閣下には場所を教えています。そのどなたかでしょう」
「リヒャルト様は見張られてて、自由に動けないのでしょう? これはルツの足音ではないわ!」
パニックに陥らんとするソフィアを前に、ジモンは悠然と構えていた。侵入者が来ようとしているのに、緊張を微塵も感じさせない。
「違っていたら、斬るまで。どうか、ご安心ください」
ソフィアはベッドから降りて、ジモンにしがみついた。ここが震源地かと思うほどガタガタ震える。ジモンまで失ったら、ソフィアを守ってくれる人は誰もいない。やって来るのは一人だけだが、ヨタヨタしたルツではなく、しっかりした男の足音だ。ドタ靴とはちがって、カッカッと気取った靴の音がした。
ソフィアが思い浮かべたのはセルペンス宰相だ。あの狡猾な蛇と対面して、堂々としていられる自信はない。今のソフィアは負け犬の顔しか見せられないだろう。
ジモンはソフィアの肩に手を置いた。
「なにがあっても、必ずお守りします。この命、果てようとも……」
ささやきは、ドアを開ける音に分断された。
「ソフィア!!」
目に飛び込んできたのは愛しい人。リヒャルトだった。
嬉しいはずなのになぜか、ソフィアの身体はこわばった。ジモンにしがみつく腕の力が強まる。肩に置かれていたジモンの手が緩んだ。
「ソフィア、すまない……すぐに助け出さず、怒っているのだろう? さあ、おいで」
リヒャルトは目の前にひざまずいた。ソフィアも床に降りているから、ひざまずかれても見下ろされる形になる。愛する人が近くまで来ているというのに、ソフィアは動けなかった。依然としてジモンに抱きついたまま、顔だけリヒャルトへ向ける。脳ではリヒャルトのことをわかっている。だが、身体が拒絶するのだ。
次第にリヒャルトの目は怒を帯びてきた。
「ジモン、どういうことだ? 馴れ馴れしく、我が妻の肩に手を回すんじゃない!! 説明しろ!」
「あ、あの……これはですね……その……」
さきほどまで泰然と構えていたジモンが、ひるんでいる。
「その手をどけろ!! 妻にさわるんじゃないっ!!」
とんだとばっちりである。ソフィアは自分でもどうしてそうしたのか、わからない。伸びてくるリヒャルトの手を振り払ってしまった。
「ソフィア……なぜ……?」
「ジモンさんはわたくしを助けてくれた恩人です。ジモンさんを叱るのはやめてください」
ハイパーイケメンはたちまち、ひしゃげてしまった。生気を失った銀の目に、長いまつげが被さる。その間にジモンはササッとソフィアから離れた。
「あの……お二人とも! 私のせいで争うのはやめてください!」
こんな乙女チックなセリフを言う、ケツ顎。それに対し、リヒャルトは鋭い視線で答えた。ソフィアに突っぱねられた嘆きが怒りに転じて、ジモンへ向かっている。ぬくもりを失ったソフィアは、ふたたびジモンに寄り添おうとした。ジモンはさりげなくソフィアから逃げ、
「それです! その動作ですよ、ソフィア様!」
指摘した。リヒャルトは白いこめかみに青い血管を隆起させている。
「なにが、だ? ソフィアを私から奪っておいて、変な言い訳をするんじゃない!」
「いえ、言い訳ではなく事実です。ソフィア様は本能的に閣下ではなく、私を求めているのです」
「なんだと!?」
リヒャルトは凄まじい殺気を放ち、腰に差した剣へ手を伸ばした。このままではジモンが殺されかねない。ソフィアは涙をポロポロこぼすことしかできなかった。
「あなた……どうか……おやめになって……ジモンさんを奪われては、わたくし、もう生きてはいけません……」
ソフィアの言葉にリヒャルトは凍りつく。顔面蒼白になり、石像のようになった。ジモンがそれにトドメを刺す。
「どうしてこうなったか、事情を説明させていただきます。ソフィア様が羽織っているマントは私の物です。そして、マントの下は下着しか身につけておられません」
話す順序よ……凍りついたリヒャルトは粉々に砕け散った──というのは比喩にしても、絶望のどん底に突き落とされたのは間違いない。愛する妻が忠臣にひっついて離れず、しかも半裸の状態とあっては事態は深刻だろう。ソフィアの精神はまだ回復してなかったが、さすがになんとかせねばと思った。
「リヒャルト様、ちゃんとお聞きください。何度も申しますが、ジモンさんはわたくしを助けてくれたのです。ジモンさんが来てくれなかったら、わたくしは看守たちに暴行されていました」
この衝撃発言のおかげで、リヒャルトは少し戻ってきた。銀の瞳は深い悲しみをたたえている。
「服は看守たちに破かれたのです。すんでのところでジモンさんが現れて、救ってくれました。そうでなければ、この身は汚れていたことでしょう。わたくし、死ぬつもりでした……」
全部言い終わるまえに、ソフィアは抱きすくめられた。熱気とリヒャルトの匂いで呼吸器がいっぱいになり、過呼吸を起こしそうになる。視界はリヒャルトの上衣にふさがれた。追加説明をするジモンの声をソフィアは上の空で聞いた。
「要はこういうことです。生命を危ぶまれるほどの体験をしたソフィア様は、普通では考えられない異常な精神状態でした。そのため、窮地を救った私に依存してしまったのです。これは本能的なことで、男女問わず戦地ではよくあることなのですよ」
「家臣が主の留守中に、妻と恋仲になることもか?」
「私は忠臣ですので、それには当てはまらないです」
「いつも、おまえはおいしい所を持っていくな?」
「ライ麦パンの一件はもう持ち出さないお約束では?」
涼しげに返し、ジモンは立ち上がったようだった。リヒャルトの胸に顔をうずめているソフィアには、なにも見えない。
「では、これ以上はお邪魔になりますから、私は失礼いたします」
済ました声のあと、ドアの閉まる音がした。