48話 初夏のアイスクリーム
春が来て、夏が来る。真っ赤な薔薇が庭園を飾るようになり、ソフィアは薄手のショールを羽織った。もちろん、赤い牛のブローチで留める。
これで、いつどこにいても、きらびやかに着飾らなくても、ラングルト公爵夫人、通称赤牛夫人だとわかるのだ。
広大な牧草地は緑で覆われ、牛たちはのびのびと過ごす。遠方にあるボドの牧場もまずまずのようだ。先日、牛乳の出荷を開始した。調査隊によると、リエーヴ国内の農作物は順調に育っている。ソフィアの勉強会が功を奏したのだろう。
牧場の規模もかなり大きくなった。もう、しっかり事業として確立している。牧場の売上は国の収入になるから、財政にかなり貢献しているはずである。悪宰相セルペンスも物申さず、おとなしい。
こう順調だと、ソフィアは欲張りたくなる。ボドの牧場を視察したいし、新しい牧場の設置、牛乳加工品の販売など思い描いては胸を踊らせた。
しかし、愛しの旦那様はボドの牧場へ行くことをなかなか許可してくれない。
(心配なのはわかるけど、過保護過ぎやしないかしら)
懸念もある。ルシア王女の尊厳が傷つけられたと、グーリンガムから再三謝罪の要求があった。リヒャルトはソフィアを案じて、教えてくれないのだが、ルツがネズミを使い探ってくれるのである。
ソフィアは報告を聞くたび、ふさぎ込んだ。
気分転換は仕事に邁進することだ。牧場はもはやソフィアの生きがいであり、心のよりどころだった。
その日は牧場には行かず、菓子工房にいた。
たくさんの氷が入ったたらいにボウルをつけ、かき混ぜる。ボウルの中身は絶対ハズレなしのアレ。この衝撃はひょっとしたら、チョコを上回るかもしれない。
「ソフィア様、量がちょっと多すぎやしませんかね?」
尋ねるのは菓子職人のエルマー。褐色の肌の爽やかな青年である。彼はグーリンガムから、ソフィアを頼ってやって来た。
「あら? だって、みんなも食べたいでしょ?」
ソフィアが言うと、周りにいた職人たちが声をたてて笑った。おいしいものが食べられるのは、食に従事する者たちの特権といえよう。
ボウルの中身は次第にかたくなってきた。多少粘りも出てくる。材料は牛乳、卵、砂糖、油だけだ。これがおいしくない理由はどこにもない。なぜなら、アイスクリームだから!
固まったら、たらいごとワゴンにのせ、ソフィアはエプロンを外した。できあがったら、即座に提供せねばならない。中庭へと走る。城の中庭では、国王のためにささやかなティーパーティーが開かれていた。
冬が終わり暖かくなってから、寝たきりの国王の体調はみるみるうちに回復した。政務を行えるまでにはまだ遠いが、ときおり食事に顔を出したり、調子の良い日は庭園を散歩できるようになったのである。
このティーパーティーの主催者はソフィア。テーブルにつくのは、国王とリヒャルトの他は王家に近しい女性が三名ほどだ。王妃はすでに他界している。
薔薇の咲き乱れる庭園につくと、ソフィアは呼吸を整えながらアーチをくぐった。穏やかに歓談する国王の姿が見える。
ソフィアに気づいた国王は白い顔に優しい笑みを浮かべた。頼りなく伸びる髭は変わらずでも、薄い頭髪はきれいに整えられている。体格の良いリヒャルトが近くにいるせいで、小人のようだった。床に伏している時はわからなかったが、顔立ちはやはりリヒャルトに似ている。二人は丸テーブルに向かい合い、その左右にご婦人方が座っていた。
「ソフィア、席を立って、いったいなにをしていたのだ?」
「ご無礼をお許しください、陛下。どうしても驚かせたかったのです」
ソフィアは国王のそばに立ち、自らアイスを盛り付けた。
金で縁取られた深めの皿に丸く盛り、ミントをのせる。平均寿命十分。薄命の牛乳界のプリンセスだ。
「早めにお召し上がりください」
眼前のお姫様に国王は目を輝かせた。白濁した左目の奥に青が透ける。
晩餐の口直しで出されるので、氷菓自体は珍しくないだろう。だが、果汁ではなく、牛乳と卵で作ったものは初体験のはず。
舌にのせれば、スッと溶けて甘味が残る。独特の風味はたいていの人を虜にする。ミルクセーキ、プリン、カスタード……みんな黄色くて懐かしい味。素朴な味だ。
この味を知らない国王はどんな反応をするのだろうかと、ソフィアはドキドキした。
ひとさじ、すくって口に入れる。国王は薄い瞼を閉じた。
せかしたりはしない。彼の中に味がしみていくのを、ソフィアは辛抱強く待った。
「これは……君の味だね、ソフィア?」
出てきた言葉にソフィアは拍子抜けした。リヒャルトが笑う。
「そうです、陛下。これはソフィアの味です。優しくって甘い……」
「そなたにとっては、妻の味だろう? 余は母を思い出した」
自分にとって、この味はなんだろう?──とソフィアは思った。
国王に促され、隣に腰かけるも、頭上についた疑問符は消えない。懐かしいと言っても、ソフィアが思い浮かべるのは故郷グーリンガムではなく、前世の記憶である。
「ソフィア、そなたにとっては、なんの味だ?」
そのように問われ、戸惑った。郷愁以外に思いつかない。しかし、それはグーリンガムに対してではないのだ。
前世、現世、来世、過去──ひらめいたのはソフィアにとっても、思いがけない言葉だった。
「未来。これは未来の味です」
しばらくしたら、この世界でも産業革命や市民革命が起こり、封建社会が崩壊するかもしれない。世界大戦が起こり、人々は社会主義に走ったり、株価の上下に一喜一憂するだろう。科学技術は食の分野にまで侵食し、素朴な味はいったん忘れられたりして……それとも、また戦争が起こったり、食料難に陥って元来の材料で作るのが難しくなるかもしれない。
その時、このアイスを食べて人々はなにを思うのだろう。きっと皆、口を揃えてこう言うにちがいない。「懐かしい」と。
アイスに感激するご婦人方は、高級であり、チープでもあるこの味を誉めそやした。
国王は満足そうにうなずき、
「そなたがこの国に来てくれてよかった。心からそう思う」
二口目を運んだ。