45話 ステラとの別れ
ネイリーズ伯爵夫妻は牧場を見学してから、自領へ帰ることになった。
リヒャルトと愛し合った翌朝、ソフィアは傷む体に鞭打って、馬を走らせた。体が痛むのはリヒャルトのせいではない。愛し合う行為というのは、普段使わない筋肉を使う。ひどい筋肉痛に加え、出血もあった。さらに軽い風邪をひいた時のような発熱で、皮膚は過敏になっている。頭もぼぅっとしており、ソフィアは仕事モードへの切り替えができていなかった。
牧場に着くとフワフワした気分のまま、夫妻が見学する準備をした。牛たちの健康、牛舎は清潔に保たれているか、牧草の剥げ具合、生育状況、堆肥の発酵の進み……ひととおり確認し、休憩所として最適なノア宅を清掃する。
三角巾とエプロンを装着し、はたきを片手に持つソフィアにノアは喫驚した。
「ややっ!! ソフィアさまっ! なにごとっすか!?」
「ごめんなさいね、急な話で。伯爵夫妻が見学に来ることは伝えたでしょう? この家を休憩所として使わせていただきたいのよ」
「それは構わねぇんすけど、なんでそんな格好なんすか!?」
「お客様をお迎えするから、軽く掃除しようと思って……」
「メイドみてぇじゃねぇっすか! めっちゃかわいい!!」
「え?……そこ?」
言われてみれば、黒地のドレスに白エプロンはメイドっぽい。三角巾やエプロンについたフリルが、ガーリーに拍車をかける。
ノアの家は土台だけレンガ、茅葺き屋根の典型的な農家家屋だ。暖炉の前に四人がけのテーブル、奥にベッド──入ってすぐが居間兼寝室である。クッションの上に脱ぎっぱなしの服やゴチャゴチャしたテーブルぐらいは、せめて片付けたかった。
ベッドで寝ていたボドがソフィアの気配に気づき、変な声を出した。
「ひぇぁっ!! こ、公爵夫人!?」
「起こしてごめんなさいね。お客様が来るから、ちょっと片づけさせて」
「なんだよ? その格好はぁ!?……エロッ!!」
ノアが、くノ一を思わせる素早さでボドの背後に回り、殴った。
「痛ったぁっっ!! あんだよ?」
「いやらしい目でソフィアさまを見るんじゃねぇ!」
「だって、寝起きにあんな格好で来られたら、なんのプレイかって思うじゃねぇか」
胸元が開いているのは割と標準だし、別に露出が多いわけではないのだが、
「なんか、今日は雰囲気がちげぇな……いやに色っぽいじゃねぇか?」
ボドのつぶやきに昨晩のことが頭をよぎり、ソフィアの体は熱くなった。ボドはノアにまた殴られる。
「だって、目の前にエロい女がいたら、反応しちまうだろうが!!」
「オイ、マジでコロスぞ? ソフィアさまは、そんな安っぽくねぇだろうが!」
ギャル系ノア強し。だが、このままいくと、修羅場に発展しそうである。これを収められるのはソフィアしかいない。
「ねぇ、昨日の話は二人で考えてくれたかしら?」
この言葉で、牙を剥いていたノアはシュンとおとなしくなった。返答は可か否か。この様子からはまだわからない。ソフィアは緊張して待った。
ノアは痛んだ髪をかき上げ、ボドの脇を突っついた。促されたボドはかしこまる。
「あ……公爵夫人……行く、行かせてもらいます!」
ボドの顔は真剣そのものだ。ソフィアはやっと仕事モードになり、まっすぐボドを見据えた。
「覚悟はできたの? 昨日も言ったけど、中途半端な心構えじゃ、やっていけないわ。成功する保証もない」
「はい。覚悟のうえです」
ボドは言葉遣いを改めた。ソフィアの視線を受け止め、目をそらさない。ボドの瞳には赤い炎が宿っていた。簡単には消えないであろう、強い光を放つ炎。その炎が自分だと気づいた時、ソフィアは決断をくだした。
「わかりました。任せましょう」
ノアがドヒューーーと息を吐いた。このやりとりの間、ずっと呼吸を止めていたのだろうか。ソフィアはクスッと笑って、
「ボドさん、絶対に成し遂げなさい。ノアを泣かせたら、承知しないわよ?」
釘を刺した。そうだ、ルツから預かった物がある。ソフィアは椅子にかけたスリングから葦笛を出した。昨晩、ルツが力を込めてくれたものだ。
「魔法のオカリナのことは、ノアから聞いて知っているわよね? これは魔法の葦笛。効果の持続性は期待できないけど、最初は強い味方になるわ。ボドさん、これをあなたに託します」
ボドはこわごわ受け取った。選曲や扱い方はノアに指導してもらおう。ノアは日々、角笛で牛たちを制御している。練習が別れるまえの良い思い出になるといいのだが。
そうと決まれば、ソフィアは迅速に進めるつもりだった。新しい牧場を手に入れ、牛も買う。準備が整い次第、ボドには発ってもらおう。
(恋人同士を引き裂くなんて、わたくしはひどい主ね。でも、悪役になっても構わないわ。ボドさんに賭けてみたいもの)
「なに、ボサッとしてるっぺ? さ、ボドも掃除を手伝え」
涙目をゴシゴシこするノアの声で、掃除は再開した──
昼前に到着したネイリーズ伯爵夫妻はハエのいない清潔な牛舎と、よく管理された放牧地を褒めた。彼らの手みやげは、荷馬車一台に積んだコーヒーとカカオの殻だ。こんな廃棄物に歓喜するのはソフィアぐらいのものだろう。これは牛糞堆肥の発酵にも使えるし、牛舎に敷いて臭気を抑える働きがある。
ノア宅を借りて、ソフィアは大好きなおば様とおじ様に料理を振る舞った。少ない材料で簡単に作れて、華やかでアレンジ自在で、牛乳をたくさん消費するレシピとは?
牛乳とチーズ、卵以外はソフィアが持ってきた。塩漬け肉は、城の厨房からよく熟成されたものを。高価な胡椒もついでに拝借してきた。
大きく角切りにしたパンチェッタの表面をカリカリに炒め、ワインを入れる。アルコールが飛んだところで、牛乳の出番だ。油分と水分が合わさることで乳化し、トロリとする。それをあく抜き済みの青菜 茹で上がった麺と混ぜ合わせ、削ったチーズと黒胡椒を振る。盛りつけた上に卵黄を載せれば、カルボナーラのできあがり!
ごくごくシンプルなごちそうを夫妻が大絶賛したのは、言うまでもない。
テーブルを客人に占領されたノア&ボドカップルも、壁際でこの味を楽しんだ。こんなにも簡単に少ない材料で貴族の食事ができてしまうなんてと、驚いて。庶民と貴族の差は一振りの胡椒ぐらいのものだ。
食事のあと、ソフィアは夫妻とハグをして別れを惜しんだ。
「これで、わしらは帰るが、がんばるんだよ。困ることがあったら、手紙でもなんでもいい。いつでも受け付けるからね?」
「ソフィアちゃん、あなたは強くなったわ。知ってる? もう、魔法はとうに解けているのよ? あなたは自分の力で道を切り開いた。だから、もう大丈夫。リヒャルトという、強い味方がいるしね」
“魔法は解けている”──ステラはそう言った。
最初は自信のないソフィアを奮い立たせるための、暗示だったのかもしれない。皆より劣っていて意気地のない女の子は、美しく誇り高き公爵夫人へと変わった。そして、一時的な変化だったはずが、定着していったのである。きっかけをくれたのはステラだ。
「おばさま、ありがとう……わたくし、もう自分をブスだなんて、言ったりしません」
「ほら、泣かないの! 夏には王都の別宅で過ごすわ。ほんの数ヶ月の別れよ。その時には牛の数がもっと増えているでしょうね!」
ソフィアの目から一滴、涙が落ちる。もう一度、ステラの丸い体を抱きしめ、それを最後の別れとした。