36話 夫婦の時間
寝室まで、ソフィアたちは手をつないで歩いた。腕を組んで歩くより、ソフィアはこっちのほうが好きだ。リヒャルトの大きな手の感触を楽しみたい。硬い骨やボコボコした血管を指でなぞるのが好き。力をギュッと入れられたり、緩められたり、モミモミされるのもいい。
甘い時間はあっという間で、部屋について二人きりになったら、少々刺激的になる。ルツや他の侍女には下がってもらった。
リヒャルトはまたソフィアを抱き上げ、今度はベッドまで運んだ。そして、ぎこちない手つきで服を脱がし始めたのである。風邪による消耗が激しくソフィアの手足は弛緩していたのだが、さすがに抵抗した。
「やっ!……リヒャルト様、突然なにをなさるの!?」
「なにって、君の服を脱がしているのだが?」
「脱がして、なにをなさるの?」
「そんなの決まっているじゃないか」
ふた月の留守は若い夫に忍耐を強いていたようだった。いったんタガが外れると、欲情というのは簡単にあふれ出るものらしい。弱弱しく抵抗するソフィアの手をはねのけ、リヒャルトは留め具を外し続ける。体がダルいことと、長期間留守にしたという後ろめたさも相乗効果となって、ソフィアは抵抗をあきらめた。
(どうぞ、好きになさって。それはあなたの当然の権利よ)
たちまちドレスは脱がされ、ソフィアはコルセットとパニエ、ガーター姿になった。小金虫のような甲虫から、身を守る硬い羽をとったらどうなるか? カマキリやオサムシといった肉食昆虫の餌食になるだろう。今まさに、ソフィアはそういう状態だった。
「恥ずかしいです……ひどいひと……」
羽を剥がれた甲虫は弱い。ソフィアは手足で抵抗する代わりに、ポロポロ涙を流した。それを見たリヒャルトは動揺した。
「ちっ、ちがうんだ、ソフィア!! 私はただ、君の具合が悪いので着替えさせてあげたかっただけなんだ!!」
着替えは侍女にさせればいいではないかと、ソフィアは白い目を向ける。リヒャルトは赤面し、下唇を小刻みに上下させていた。視点もあちこち動き回っているし、隠していたエロ本が母親に見つかって、挙動不審になる中学生の動きである。どもり、たどたどしく下手な言いわけをするリヒャルトが滑稽に思えてきて、ソフィアはついクスッと笑ってしまった。
「あっ、笑ったな? さてはウソ泣きか?」
「ウソ泣きなんて器用なことはできません。本当に恥ずかしくて、涙が出たの。こんな情けない格好にされてしまって」
「う……見るぐらい、いいだろう。私は君の夫なのだし……」
「ふた月も我慢したんだ……っておっしゃるんでしょう?」
次に出る言葉を言い当てられ、リヒャルトは黙った。しかし、気を取り直して、コルセットの紐を解き始める。頑として決行するつもりのようだ。ガーターは外されてしまった。ソフィアは素足を見られるのも初めてである。
リヒャルトの美々しい顔は真剣そのもので、心臓手術中の外科医(かつてドキュメンタリー番組で見た)を思わせるほど、気迫がこもっていた。女性の裸を見たいのが丸わかりの下卑た表情だったら、ソフィアも怒って拒絶しただろう。だが、ハイパーイケメンの鬼気迫る表情というのは、惹きつけられる。自分の置かれた状況を忘れて、ソフィアはつい見入ってしまった。
(でも、人の命を預かって切開後の縫合をしているわけじゃないのよね。彼が手に持っているのはわたくしのコルセットの紐であって、それを至極真面目な顔で解いているだけなのよ。ただ、懸命に女の下着を脱がそうとしているだけ……あっ!!)
気づいた時にはもう遅い。ソフィアはスルッとコルセットを脱がされてしまった。下着の下は素肌だ。なにも、つけていない。大慌てで覆い隠そうとするソフィアの腕を、リヒャルトはガッシと押さえつけた。
リヒャルトは目を見開いてソフィアの上半身を凝視した。若干、血走った目で、それこそガン見である。ソフィアのほうは恥ずかしいというより、凄まじい緊迫感に圧倒された。リヒャルトの表情は、病変の映ったレントゲンを確認する医師のそれだ。ソフィアは、浮き沈みを繰り返す自分の首から下の丘を見ているしかなかった。
時間にして十秒ほど、リヒャルトはようやくソフィアを開放した。
「目に焼き付けた。さ、ソフィア、ネグリジェを着せてあげるよ」
「リヒャルト様、殴っていいですか?」
元気だったら、間違いなくビンタしていただろう。目に焼き付けた……とは?? ソフィアは緊迫感に騙されたことを後悔した。あとから恥ずかしくなってくる。
リヒャルトはソフィアを着替えさせ終わると、自分も脱ぎ始めた。この世界の男性の衣服は格好いいのだが、下着姿は間の抜けた感じである。丈の短いキュロットと呼ばれる半ズボンの下は下着で、それに長靴下をつけている。その長靴下も取ってしまうと、ゆったりめのブラウスにパンツ姿。ワイシャツにトランクスみたいなスタイルになる。
そのダサい格好でリヒャルトはベッドにもぐりこんできた。
「くっつかないで。風邪がうつりますよ?」
「うつっても構わない。気にせず、君にくっつけるだろう?」
「どっちみち、気にしないじゃないですか?」
筋肉質な腕に引き寄せられ、ソフィアは抱きすくめられる。
リヒャルトの匂いが鼻腔をいっぱいにして、ソフィアの気持ちを落ち着かせた。この爽やかな香りに心を乱したのが、ずいぶんまえのことに思える。ソフィアは脱力し、リヒャルトにその身を任せた。
ドッドッドッド……荒々しい拍動音が聞こえたかと思うと、文字通り目と鼻の先にリヒャルトの顔があったり、大きな手で髪を撫でられる感触や、リヒャルトの熱い呼気……ソフィアはウトウトしつつ、愛しい気配を常に感じていた。熟睡できないのは幸せであり、このまどろみが永遠に終わらなければいいのにと思った。
うっかり深い眠りに入ってしまったのは、どれぐらい経ってからだろう。目覚めた時、ソフィアは汗だくだった。身体のダルさはなくなっている。熱は下がったのか。
口を半開きにし、緩んだ寝顔のリヒャルトがこちらを向いていた。まったくの無防備だ。ピッタリふさがれた銀のまつげを心の指でなぞり、やや乾き気味の唇に触れたいのをこらえる。濡れた下着が体温を奪い、ソフィアはブルブルッと身震いした。
(もっと見ていたいけど、風邪がぶり返しちゃう)
着替えはチェストの中に入っている。ソフィアは音を立てないように取り出し、着替え始めた。
熟睡するハイパーイケメン夫を眺めながら、裸になるのは結構スリルがある。背徳感のあるエロスは血の巡りを良くした。新しい部屋着に替え、ローブを羽織ったころにはすっかり、ソフィアの風邪は完治していた。