33話 悪宰相は笑う
あらかじめ、使いをやっていたので、宰相セルペンスは執務室で待っていた。
ルツを横に従えたソフィアは胸をそらす。グーリンガムにいたころだったら、縮みあがっていたであろう蛇のような逆三角髭も、今はまったく平気だった。ケツ顎武人から始まり、ハイパーイケメンな白髪ゴリラ、不良農民ときて、ソフィアは鍛えられた。
挨拶もそこそこに、ソフィアは執務室のテーブルに書類を置いた。
「近隣の貴族から牛乳の注文をいただきました。来月には出荷を開始する予定です」
「ほぅ……」
セルペンスは蛇の目を細めて、受注書を吟味する。アラを探すのはお得意だろう。
(ごめんなさいね。不備はないのよ。わたくしは隙を見せないのが得意なの)
しかし、緊張はする。それでも、ソフィアは余裕の笑顔を作った。
「なるほど、これだけの契約を取り付けるとは、たいしたものだ。ラングルト夫人は営業能力にも優れておられると」
誉め方がどこかイヤミったらしいのは、気のせいか。いや、こちらは渾身の一撃を放ったつもりなのに、ノーダーメージに見える。ソフィアの自信に暗雲が垂れてきた。
「約束通り三ヶ月で成果を出したので、もう余計な口出しはされないということでよろしいですね?」
「しかし、商品の発送はまだではありませんか? 経営自体がまだ始動していない状態では?」
「それは当然でしょう? なにもない荒れ地からスタートしたのですから、販売の目処がたったのでこれからです」
「契約を交わしただけでは、それを成果とは判断しかねます」
「三ヶ月でできる範囲はここまでです。そんなにすぐ、売上を出せるわけないでしょう?」
言い争いになり、ソフィアは熱くなってきた。こういう場合、リヒャルトがいてくれたほうがいい。端っから、ソフィアを軽んじている者に対し、有効なのは強い男性のカードだ。ケツ顎ジモンでもよかった。申しわけないが、ルツだとお守り程度にしかならない。セルペンスにとって、老いた侍女は邪魔な置物と同じ。存在すら認識していない可能性もある。
三銃士に出てくるリシュリューみたいなこの男は、とにかく実績を気にする。性別も関係しているだろう。実績のない他国の小娘がなにを言おうが、聞いてもくれないのだ。内容は関係ない。身分や美しさも、彼にとっては付け合わせ程度の価値だ。彼がほしいのはわかりやすい数字。金でもいいし、勲章の数でもいい。自分以外の誰か、不特定多数に認められたという証明だけを求めている。
「これだけの受注書でご納得いただけないのなら、調達した資金を見せましょうか? 為替手形でよろしければ?」
「金集めだけしても、負債となってしまっては意味がないでしょう。私が知りたいのは、純粋に利益をどれくらい出せたかってことです」
「理屈をこねてばかりいるのに、たったの三ヶ月で利益が出るとお思いなのですか?」
「三ヶ月を提示されたのは、公爵夫人ではないですか?」
これでは埒が明かない。ソフィアは絶対にやめる気はないし、セルペンスはそれを女のわがままと受け取ったようだった。
「なんらかの成果を出したらって、お約束でしたわよね?」
「いいえ。私が納得したらというお話でした」
言った言わないの水掛け論になってしまった。どちらかが音を上げないと永遠に続く。
観念したのはセルペンスのほうだった。はぁーーーと大げさにため息をつき、
「わかりました。牧場経営をおやめになる気はないということですね?」
と、軽侮の眼差しを向けた。
「夫人が勝手に約束したことで、そのように駄々をこねられるのなら、仕方ありません。私のほうはあなたが税金の無駄遣いをやめるまで、反対し続けますから」
「反対されようが、わたくしはそれなりの成果を上げましたし、宰相閣下の言うことを聞く義理はありません」
「いいのですか? 私は親切でやめたほうがいいと申しているのですよ? 議会でも、夫人の行動を議題として取り上げさせていただきますが? お立場を考えたほうがいいのではないですか?」
ここまでが限界だった。これ以上の戦いは不利になるばかりだ。あとはもう第三者の手を、リヒャルトの手を借りるしか……
第一戦目、完敗。
ソフィアの口撃が静まったのを見計らって、セルペンスは歪んだ笑みを浮かべた。
「あ、そうそう! 農民を集めて、勉強会みたいなことをやっておられるそうですが、ゴッコ遊びは大概にしてくださいな。国有地でまた、放火騒ぎがあったそうですよ?」
「なんですって!?」
「なんでも、あなたの牧場の近くだそうで。牧場の関係者ではないんですか?」
セルペンスはクククッと不気味な笑い声を立てた。ソフィアは呆然とするばかりである。すぐにでも、状況を確認しなければ……
勝てると思っていた戦いに負けた。その心的ダメージはかなりのものだった。しばし、ソフィアはボーとして、ハッと気づいた時にはセルペンスはいなくなっていた。
時間が連続していると認識できたのは、激昂した名残のおかげだ。頬がのぼせたみたいに熱い。ぼんやりしている場合ではない。しっかりしなくては──
ソフィアはカッカッとほてってくる頬を両手で叩いて、活を入れた。
「ソフィア様! 大丈夫ですか!? お顔が真っ赤ですじゃ!」
「ああ、悔しくって腹が立って、頭に血がのぼってしまったの。しばらくしたら、落ち着くわ」
「でも……」
「ルツ、お願いがあるの! 計算とか得意だったわよね?」
「婆はソフィア様にそろばんを教えましたのじゃ。まだまだボケてはおりませぬ」
「財務書類を調べてほしいのよ」
一週間前、リヒャルトと手紙でやり取りしたところによると、まだ財務書類の調査はできていないようだった。ソフィアがしたのは大ざっぱな確認だけで、精査までは至っていない。不透明な金の流れ、紛失した明細書、改竄された報告書など、つなぎ合わせれば、なくなった金の行方を知る手助けになるかもしれない。
精査が進まないのは信頼できる学匠の確保ができないからである。学匠のほとんどは、セルペンスの息がかかっている。グーリンガムの学匠を採用しようと思ったのは、こういう事情もある。
(ルツなら百パーセント信頼できるわ)
財務関係はルツに任せるとして、放火の件を確認しなければならない。治安関係は……そうだ! ケツ顎騎士団長ジモン!! ソフィアは大急ぎで、城内にある騎士団本部へと向かった。