29話 蘇+チョコ
ソフィアと温室でいちゃついたその日に、リヒャルトは王城へ帰っていった。王の代理が何日も留守にするわけにはいかない。苺味のキスが最後の思い出となった。これから、ソフィアはふた月もかけて全国を旅する。
全国ツアーのキャラバンはネイリーズ伯爵が用意してくれるという。まったく伯爵夫妻には頭が上がらない。ドレスが仕上がるまでの一週間、ソフィアは伯爵夫妻と綿密な打ち合わせを繰り返した。
全国へ牛乳の魅力をアピールするにあたって、一番の難関は牛乳の賞味期限だった。瓶詰にして針金付のコルクで厳重に封をしても、もって二週間。もちろん、高温殺菌処理をしてもだ。ヨーグルトも低温保存で一週間ぐらい。菓子などの加工品も同じく。何ヵ月ももつバターは生産に手間がかかるし、一番輸送に適しているチーズはまだ提供できる段階にあらず。そもそも加工品の販売を開始できるのは、大規模な生産システムを構築してからになる。
ソフィアが思いついたのは乳牛を一頭、丸ごと旅に同行させる方法だった。これでいつでもフレッシュな牛乳を試すことができる。ただし、宣伝をしても、遠方の貴族に販売するのは難しいだろう。彼らに期待するのは受注ではなく、投資である。
農業指導の際、肉牛用の牧場で乳牛を育てる提案をしたり、土地を買い取って事業を拡大する根回しをする。
(まだ、大元の牧場でも試作段階だし、遠方攻略は先の話ね。でも、農業指導のついでに布石を打っておいて損はないわ)
ソフィアの牧場の管理は信頼できるギャル系農民のノアに任せてある。彼女には手紙で留守中のことをお願いし、乳牛を一頭送ってもらった。
そして、伯爵のデウスの実、カカオの宣伝である。
伯爵はカカオ豆を発酵、ローストし、磨砕するところまで成功していた。磨砕後に脂肪分とココアに分離する。分離前の状態をカカオマスというが、そのカカオマスに分離した脂肪分と砂糖、粉乳を混ぜてチョコレートになる。
この粉乳を作れないことにソフィアはあとから気づいた。牛乳を加工して粉にする技術が使われるようになったのは、前世でも現代に近い近世。伯爵に牛乳を使えと言った
ところで、無理な話だ。チョコレートに液体の牛乳を添加したら、ドロドロになってしまう。しかし、人間万事塞翁が馬。行き詰っても、助けとなるヒントはどこかに隠されている。温室デートで苺を食べて思いついた練乳。厨房を借りて、それを作っている時にひらめいた。
(そうだ! 単純に熱で水分を飛ばせばいいだけじゃない!!)
牛乳は手土産に持ってきたものを使い、砂糖を加えてコトコト煮詰める。練乳は保存に適しているし、貴族へのお土産にも最適だ。
この練乳と同じ製法で作るチーズがある。平安時代の貴族のおやつ、蘇。ただ、牛乳を煮詰めて水分を飛ばしただけの食べ物だが、当時の高級品というだけあってなかなかイケる。牛乳の味をギュッと凝縮した感じか。ほんのり甘く、塩味もある。そして香ばしい。この蘇を粉乳の代わりに加えてみてはどうだろうかと、ソフィアは思った。
工房でチョコ作りに没頭する伯爵のところへ、ソフィアは厨房で作った蘇を持っていった。
工房にはかまどが四台。水道も通っている。エプロンを茶色く汚した伯爵は職人とすり鉢でカカオ豆をすり潰しているところだった。ソフィアに気づくと、満面の笑顔で迎える。
「やあ、ソフィアちゃん、君の言ったとおり牛乳を入れてみたら、劇的においしくなったよ。ただ……」
「固まらないのでしょう?」
「うん、君の言う“チョコレート”というものにはなかなかならなくてね……」
伯爵は作業台の上の失敗作を見やる。ドロドロのクリーム状のチョコの塊がいくつもの皿の上で鎮座していた。味はいいのだろう、味は。見た目は最悪だが。
「これを使ってみてください」
ソフィアは出来立てほやほやの蘇を差し出した。ワックスペーパーに包まれたそれはチーズかバターに見える。勘のいい伯爵の瞳孔が開いた。
「味見しても?」
「ええ。これは牛乳を煮詰めて水分を飛ばした食べ物です。そのままでも、塩を振っても、蜜をかけても、炙って食べてもいいです。なかなか美味でしょう?」
「うむ。思ってたより甘味が強いな。でも、さっぱりしている。よし、入れてみよう!」
おろし金で蘇を細かくし、熱を与えつつ、カカオマスに溶かしこんでいく。職人は絶えずグルグルかき混ぜないといけないから重労働だ。少量の試作品ならともかく、販売用に生産するとなったら大変である。直径一メートルある鉄の大鍋が壁際に置いてあるのを横目に見て、ソフィアは鼻に皺を寄せた。
溶かし混ぜたものを固めるまでの時間は氷室で二時間ほど。失敗した試作品を使って、ホットチョコを楽しむ。労働する職人たちのためにソフィアが振る舞った。チョコとミルクの出会いはソフィアたちを内からじんわり暖める。強い甘味のあとに苦みと酸味。そして、心を穏やかにする香りが鼻腔から抜けていく。誰もを幸せにする魔法の飲み物だ。伯爵夫妻とソフィアが運命の出会いを果たしたように、チョコとミルクも神が定めた邂逅なのである。
第一回目の蘇+チョコは油分が多く、ドロッとしてしまい失敗。加えるココアバター(脂肪分)を調整し、何度か挑戦してやっと生チョコに近いものが完成した。固めのチョコは無理でも、味はそれに負けず劣らず、チョコの風味も牛乳の旨味も両方生きている。ココアをまぶせば、高級菓子店に並んでもおかしくない出来映えだ。職人たちも大絶賛した。
「おいしい!!」
「舌でとろける!!」
「香り高く、苦みもアクセントになっていますね!」
蘇+チョコはめでたく成功!! ソフィアはエプロン姿の伯爵と工房で手を取り合って喜んだ。嫉妬深いリヒャルトには見せられない光景である。
しかしながら、蘇を作るのには相当手間がかかる。チョコレートはこの世界ではまだ、超高級品として売り出すしかないだろう。特権階級のみが味わえる幻の味だ。全国ツアーにはココアを持っていくことにした。それと、ローストしたカカオ豆本体。これだけでも充分おいしいおやつだ。砂糖と一緒に食べれば、チョコレートの味がする。カカオ豆から分離した脂肪分、ココアバターは少しだけ持っていく。これは菓子に入れたり、スキンケアや化粧品にも使える。伯爵にリストアップしてもらい、優良顧客となりそうな貴族にだけ試作品を渡すことにした。
出発の準備は着々と進んでいく。