25話 ベッドイン
ネイリーズ伯爵家は居心地よく、いつまでもずっといたいと思わせた。夫妻の温かい人柄がそうさせるのだろう。気負うことなく自然体でいられる。柔らかい真綿にくるまれる、大好きなルツの腕に守られる感じとも似ている。魔法にかけられてしまうのだ。
ソフィアはよくしゃべり、よく聞いた。ルツ以外に素直な気持ちを話すのは、転生して初めてのことである。
仕事というのを忘れてしまうほど恍惚とした時が流れ、ごくごく自然に寝室へ案内された。乳香の香りがふんわり漂ってくる。着替えを手伝う侍女を断ったのは、一人で部屋を満喫したかったからもしれない。
ソフィアはベッドに腰かけ、背中の留め具へ手をやった。豪勢な天蓋つきベッドだ。リエーヴ王国に来た時、あてがわれた寝室が立派で閉口したものだが、それ以上だった。
(大きなベッドねぇ! 三人くらい寝られるんじゃないかしら! 二人でもお釣りがきそう!)
そんなことを思いつつ、留め具を一つ、二つ外す。三つ目はちょっと届きにくい。指を目一杯、伸ばしていると、
「手伝おう」
背中に手が伸びてきた。指と指がぶつかって、ソフィアは飛び上がらんばかりに驚いた。
「り、りりり……リヒャルトさまっっ!! どうしてここにっっ!?」
「一緒に寝室へ案内されたじゃないか?」
レディステラの魔法はあっけなく解けてしまった。今、ソフィアはハイパーイケメン夫と寝室に二人きりで、しかも服を脱がされそうになっている。ピンチだ。
「なにゆえ、同室ッ!?」
「夫婦なんだから当然だろう?」
「でもっ! どうしてっ!? どうして、わたくしの服を脱がそうとしているのですっっ!!」
「そっ……それは……君が困っていたから、手伝おうと思っただけだ。やましい気持ちからではないっっ」
やましい気持ちが本当になくて、服を脱がそうとするだろうか……。
ソフィアの剣幕にリヒャルトはたじろいだ。
「すまない! 着替え終わるまで、うしろを向いているっっ!!」
「ちょっと待って! 背中の留め具だけ外してください。自分でできないのです」
我ながら面倒くさい夫婦だとソフィアは思う。なぜ、手伝いの侍女を断った? それより、夫のこの態度だ。
(こんなんじゃ、おばあちゃんになるまで処女なんじゃないかしら?)
背中の留め具を外される感触にドキドキしつつ、自分以上に意気地のない夫をどうしようかと考えた。
「留め具が終わったら、その下のコルセットの紐も解いてくださいな」
思いきってソフィアは頼んでみた。コルセットの下は素肌だ。ビクッとするリヒャルトの振動が伝わってくる。なにをビクつく必要があるのだ。夫婦なら当然だ。そう、ソフィアは自分に言い聞かせる。同じことを考えているのだろう。リヒャルトの指はソフィアの背中より高温なのに震えている。ときおり触れる指を通じて、リヒャルトの心の内を見た気がした。
(でも、親戚の家で初めてっていうのはどうかしら?)
お堅いマジメちゃんのソフィアにとっては大胆な行為だ。レディステラのまん丸い顔がチラつく。
(同じベッドで寝るのよね?)
考えれば考えるほど、迷宮にハマっていく。夫婦背中合わせで着替え、振り向くとリヒャルトも茹で蛸のように赤くなっていた。
「り、リヒャルトさまっっ!!」
「ソフィアっっ!!」
そしてまたハモる。ソフィアの頭の中は真っ白になり、言おうとした言葉はどこかへ行ってしまった。それはリヒャルトも同じだったようで、互いに黙り込む。寝間着姿でベッドを挟んで向かい合い、うつむく夫婦はそれこそ初夜の絵面だ。結婚後、もう数ヵ月経っているというのに……
「ソフィア、湯浴みを断ったのはなぜかい?」
ポツリ、自信なさげにリヒャルトが沈黙を破った。そういえば、風呂に入っていきなさいと勧められ、断ったのだった。
「だって、夫婦二人でって言うんだもの。恥ずかしいわ」
「いつになったら、君は受け入れてくれるんだ?」
「えっ? わ、わたくし??」
寝室を訪ねてくれないのはリヒャルトではないか。モジモジしていたソフィアは顔を上げた。
リヒャルトの銀髪が揺れる。髪とお揃いの双眸は冬の月のようで、うっかり見とれてしまう。ソフィアは責める目つきをしていたのだろう。リヒャルトはいったんひるんでから、すぐに見返してきた。
「私の気持ちは知っているね? でも君に触れていいものか、わからない。君が怖がっている気がして……触れたとたんに壊れてしまう気もして……」
ライ麦サンドイッチを届けた一件から、リヒャルトの気持ちはわかっている。彼はソフィアを好いているのだが、遠慮して第一歩を踏み出せない。ソフィアのほうは恐れる気持ちがあっても、あの日から心は決まっていた。
「別に構うことはありません。この身体はリヒャルト様のもの。どうぞ、好きになさって」
「じゃ、じゃあ、今から……」
「今はダメです。お風呂も入ってないし、よそのお宅でそんなはしたないこと、できません」
タイミングがあるのだ。文化的な人間は清潔な環境でなおかつ、他人に迷惑をかけず性交する。ところ構わず、排泄する動物と同じにしては困る。
ところが、出鼻をくじかれたリヒャルトは、あからさまに萎れていた。肩を落とし、銀色の睫毛を伏せる。顔まで漆喰の壁と同化しそうなぐらい白い。この様子だと王城に戻っても、当分寝室を訪ねてくれそうもなかった。ハイパーイケメンのくせに情けなさすぎる。
(もう……わたくしをシワシワに干からびさせるつもり??)
リヒャルトはイケメンではあるが、プライドが高く生真面目な性格が災いして女性経験は少ないのかもしれなかった。ソフィアがちょっとでも拒むと凹んでしまい、それ以上の進撃を断念する。軍の長でそれだったら、敗軍間違いなしだろう。戦いには思い切りや度胸が必要だ。商いもそう。そんなことを考えて、ソフィアはモヤモヤする。しかし、身持ちの固いソフィアにも責任がある。決死の覚悟で提案することにした。
「キス……くらいなら……」
この言葉でリヒャルトは水を得た魚になった。銀の目をキラキラ輝かせ、
「さ、ベッドに入ろう。夫婦なんだから、同じベッドでも構わないよね?」
などと誘ってくる。同じベッドに入ったら、それ以上のことをされるのではないかとソフィアは気構えてしまった。リヒャルトには前科がある。以前、悪ふざけとはいえ、強引に押し倒されたのだ。
「今日はキスだけですからね!」
ソフィアは念を押した。臆病なのはこの夫婦の特性だ。
ベッドの中はリヒャルトの熱でポカポカしていた。人の熱は心を穏やかにする作用がある。ソフィアは実家を離れる最後の晩に、ルツと寝たことを思い出した。老いたルツの体は弱弱しく、それでいて強い熱を放っていた。たくましいリヒャルトの体とはまるでちがうけれど、守られているのは同じだ。
ルツは今ごろ、どうしているだろう? 手紙の返信がこないから心配だ。ちゃんと届いているのだろうか? 信用ならない家族が、ルツを城から追い出したりしていないだろうか? 胸がいっぱいになり、ソフィアの目の奥は熱くなった。
「どうしたんだ?」
「実家に置いてきたルツのことを思い出したのです」
浮かれた調子からリヒャルトはトーンダウンしたようだった。お婆ちゃんと同じにされては、複雑な気持ちだろう。大きな手が赤毛に優しく触れる。ルツもこうやって頭をなでてくれた。ソフィアは体を弛緩させ、目を閉じた。
すっかり安心しきっていた。少しまえに約束したことなど、どこかへ行ってしまっている。だから、不意に唇をふさがれた時は目をパッチリ開いてしまった。見えるのは長い銀色のまつげ。ルツとはちがう荒々しさにソフィアの息は止まった。
(リヒャルトさま……)
奪われたのは唇だけなのに体の芯がジンジン熱い。ソフィアはどうにかなってしまいそうだった。このあと、彼が強引に襲ってきたとしても嬉々として受け入れただろう。口を刺激されるだけで、理性は簡単に奪われる。常識的なことは全部吹き飛んで本能だけになる。ソフィアは雄としての彼を欲した。
残念ながら、リヒャルトは約束を守った。
キスが終わると、恥ずかしくて互いの顔をチラとしか見れずそのまま抱き合う。暖炉に投げ入れられた錫の兵隊さながらソフィアは彼の熱で溶け、意識を失うように眠りに入ったのである。
初めてのキスの味?? そんなものは思い出せやしない。