夢へ二歩目
夢への一歩を踏み出した日野賢人
多難の日々は続く……
3
4月に入り、桜が満開となった。
日野賢人は河内山本駅に降り立った。
篠崎プロダクションは8時ー17時を基本としていた。漫画家と言えば夜中に制作活動をしているイメージだが、篠崎先生は規則正しい制作活動をしていた。そして、月曜日から土曜日まで仕事で日曜日、祝日を休みとしている。
時には残業があり、漫画家のプロダクションであるがサラリーマン的な時間配分であった。
日野賢人の初日は1年先輩の水田孝彦と共に始まった。
朝、7時 30分までに出勤し掃除からはじまる。
掃除機をかけ、拭き掃除をし、ゴミ出しをする。後はお湯を沸かし、何時でもお茶やコーヒーを入れられるようにしておくのが日課であった。
大阪の事務所なので出版社の担当者などなかなか来客は無いのだが、その対応や電話を受けるのも下っ端の仕事である。
配置としては、入って右奥がチーフ尾崎、その迎え合わせが江山、左奥が日野の席でその前が水田である。日野賢人はチーフの目が直ぐ届く所に座らされている。
篠崎プロダクションでは歴代新人はチーフの横に座ることになっている様だ。
道具は、つけペン(主にカブラペン)、墨、消しゴム、サシ、カッターナイフ、マジック(極太と普通サイズ)、筆などで、別の棚にスクリーントーンがかなりの種類が入っている。
その横の棚には篠崎先生の本がビッシリ並べられている。この本は何時でも見て良いらしい。
棚の真ん中辺りには、参考にして描くらしいのだがモデルガンが数十丁並べてあった。かなり本格的なモデルガンである。下側には写真のスクラップも並べてあり、日野賢人には見る物総てが物珍しいものである。
作業工程は篠崎先生が原稿にセリフと主な人物をペン入れをし、大体のアタリ(篠崎先生が描いて欲しい背景、付属物や人物など鉛筆で軽く描かれている)を基に、写真や参考物を見ながら描いて仕上げていく。
原稿は常に見える所に置かれて、能力によって枚数、場面などによって分けられていく。
日野賢人のまず初め仕事は、ベタ塗りからである。
ある程度、背景が入れられた原稿が配られ、ベタ塗りをするところには✖️印がつけられている。
そこを黒く塗り潰すのだが、初め墨で塗り潰すと思っていたが、マジックで塗っていく。
墨で塗ると乾かすのに時間が掛かり、効率が悪い事からマジックを使うのだそうだ。
しかし、ベタ塗りにもテクニックがいる。
マジックで広範囲を塗る時、マジック特有の筋が出るのだ、印刷するとムラになるらしく綺麗に一定方向に塗るのがコツである。極太のマジックを使用する時には、サシを用いて一定方向に線を引く様に塗っていく。
あと、髪の毛などは全部塗らず、余白を残して塗ると頭に丸みや質感が出てくる。
もう一つの作業は、消しゴム掛けである。消しゴムで下書きの鉛筆線を消すのだが、闇雲に消してはダメで一定方向に消していく。原稿を痛めない為である。いろいろな方向に消していくと原稿がグシャとなるのを防ぐためである。
ベタ塗りと消しゴム掛けは基本の基本かもしれない。
今までは自己流にやって来たから思った事も無かったが、原稿を大事に綺麗に仕上げるのもプロの仕事なのだと痛感させられた。
1か月が過ぎた頃から、ビックリ線や服の模様などを引かせてもらう様になった。
ビックリ線は集中線ともいう、それの応用でスピード線も習った。
ビックリ線も尾崎チーフや江山さんのを見ると芸術的な線が引かれる。
根元が太く先が流れるように細くなっている。
水田孝彦も一年先輩なだけあり、そこはマスターしているようだ。
「水田さん、どうしても線が太くなるのですが!」
「まあ、最初からは無理だから練習するしか無いよ」細い線を出す時は裏ペンを使ったら出るから、って言われたがまだまだそのレベルでは無い。
篠崎先生の現在抱えている連載本数は、週刊1本隔週が2本である。週刊が20ページ前後の作品で隔週が30ページ前後であり、それを毎日こなしていく感じだ。かなりのハイペースにはなる。
篠崎先生は大阪に住んでいる為、原稿を郵送している。それを踏まえて原稿を揚げるために、余裕を持って仕上げている。締め切りに滅多に遅れないので、出版社では締め切りを必ず守るので有名らしい。
それは、漫画を描いた事がある人ならわかると思うが、驚異的なことである。
ネームに1日、ペン入れに2日しか掛からず、アシスタントに原稿が回ってくるのだ、早すぎてアシスタントが追いつかない事もある様だ。
時々カラー原稿があり、地獄的なスケジュールになるらしい。
2か月目に初めて、原稿を1ページ任された。
背景も、全て描かなくてはいけない。
尾崎チーフや江山さんの作業を見ていると無駄が無く、流れるように描いている。
日野賢人に任されたコマは、喫茶店のシーンで外観から中の場面まで描か無ければならない。
写真と前回本に載った原稿を見ながら、真似ていく感じである。まだまだ、頭の中に閃いて描ける状態ではなく、真似るしか無いのである。
先生の人物(かなり小さい)が入った原稿に自分自身の手で触れて描いていく。手のひらが汗をかき、震えている。鉛筆で下書きをし、尾崎チーフにみてもらうが「デッサンが狂っているから、もう一度やり直して!」デッサンには多少の自信はあったが、プロの目は誤魔化せない!
「まず、目線(基本線)を必ず決めてそれから奥行きなどを決める」「目線が狂うと全部が狂うので気をつけるように」
読者には分かるだろうか?
絵を描く基本は基本線を一本決める事が重要である。
時間だけが過ぎていく。
日野賢人は相当焦っている。
午後5時が来る篠崎先生が個室から出て来た。
「尾崎、えーちゃん帰るわ後は宜しく、みんなも無理すんなよ」「日野くん焦らずにな、みずちゃん頼んどくわ」
「お疲れ様でした」4人とも立ち上がり、あたまを下げた。篠崎は片手を上げた。
篠崎先生は、ニックネームで皆んなの事を呼んでいるようだ。
江山はえーちゃん、水田は水さん、尾崎は尾崎、何故かベテランは呼び捨てで、江山はちゃん付け、水田はさん、日野はひのさんになりそうだ。
「さあ、置こか!水さんとヒノさんと手分けして、洗い物しておいて終わったら上がろうか」
日野は原稿が気になって仕方がなかったが、洗い物をし帰り支度をしていた。
4人でマンションの一階まで行き、それぞれ分かれた。尾崎は車で江山は自転車通勤である。
水田と日野は電車通勤で、挨拶をすると2人は河内山本駅に向かった。2人とも定期券を購入していた。
水田が改札口に入りかけた時、日野の足が止まった。
「水田さん、残って続き描いたらダメなんですか?」「ああ、あんまり勝ってにしたらダメらしいけど……」水田も改札を抜けるのを辞めた。
「そうやな、おれも気にはなってたんよ、ヒノさんはもっと気になるわな!」
日野は大きく肯いた。
「ヒノさんは入って2か月やろ、俺なんて8か月経つのに全然付いていってないって言うか、完全に足引っぱってるもんな」
「よし、戻ろうか!」「はい」
4人とも合鍵は持たされている為、出入りは自由なのだが、篠崎先生のポリシーに逆らう事にはなるが、そんな場合では無いと2人はスタジオに戻った。
まあ、尾崎、江山も分かっていてる。
当然の如く篠崎もわかっている。
若い子達、誰もがもがきながら必死にやっている、夢に向かって走り出している事を。
翌日、日野賢人の任された原稿は仕上がっていた。
尾崎チーフは前日の事には何も触れる事も無く、原稿をチェックしたが表情が冴えない。
かなり、苦労したのが見える、何度も消しゴムで消した跡が付いている。
水田も何とか日野に刺激され、2枚仕上げていた、水田は尾崎チーフからOKが出た。
だが、日野にはやり直しの指示を出した。
その日も日野は残り、もう一度書き直しをしていた、日野の目には涙が溢れでていた。
そこには水田もいた。
それは同情や手助けの為とかでは無いのだ。
同じ夢を目指す者同士の自然な行動である。
厳しい世界故、負けてはならない、負けてなるものかという、ライバル心の目覚めでもあった。
数日が経った。
「水さん、ヒノさん連れて注文してるトーンを取ってきてくれへんか、場所も教えたって欲しい!」
尾崎チーフが全体の流れが順調なのを確認し、水田に言った。
「はい、わかりました」
トーンとはスクリーントーンの事で、漫画の仕上げなど影などをつけるシール状になってる物である。
「ヒノさん行こか!」
水田と日野は事務所マンションの一筋入った商店街へ出て、南の大通りへむかった。
商店街は決して大きくはないが、意外と活気がある。大通りまで出ると左直ぐに画材屋があり、篠崎プロはそこで原稿やペンやスクリーントーンを注文していた。
歩いて5分ぐらいなのでとっても便利である。
この頃は画材屋も少なくなり、ここはまだ昔ながらの画材屋が残っている。
「61番が50枚、82番が30枚、62番が20枚、砂トーンが20、ボカシ(グラデーション)が20枚、今回聞いているのはコレだけです」
電話注文していた為、画材屋のご主人が用意してくれていた。
「ありがとうございます」
水田と日野は店主にお辞儀をし、店をあとにした。
「ここが、いつも頼んでいる高木画材店やから、覚えといてな!」
トーンは漫画家によって、好みがある。
篠崎プロダクションでは、61番を影のメインに使用していた。次が82番である。
「ヒノさん、トーンって一枚600円ぐらいするんや、なかなか個人で買われへんでー」
「そんなにするんですか、それわ無理やな!」
この時代、トーンが高かった記憶がある。その後、漫画教材が増えた事もあり、半額ぐらいになったきがする。
現在では、パソコンのソフトがあるのでいくらでも使えるが、当時は無駄な使い方をすると怒られたりした。
全て手書きの時代でカラー原稿も、水彩絵の具を使用し重ね塗りをしていた。トーンもそうだが、特にカラー原稿は失敗が許され無かった。
日野も大分慣れてきた。
ベタ塗りや集中線、斜線、服の模様、そして背景もビル街やメインでないコマなどをこなせる様にはなってきた。
しかしながら、メインの人物が絡む背景はまだまだやらせて貰えない。
道のりはかなり遠い。
日野が漫画家を目指すきっかけになったのは、小学校生5年になってすぐの事だった。
岡山市の中心、岡山駅から南に一駅の大元駅の近くのアパートで小、中学校時代は母親と過ごした。母子家庭であった!
大元駅の路線は、昔は宇野線と呼ばれ岡山駅から南の宇野駅が最終で瀬戸内海まで行っていた。対岸には四国香川県がある。
現在では宇野線と瀬戸大橋線が並行し茶屋町で分かれている。
その時には思わなかったが、意外と町中に住んでいたのだ。だけど、この時代はまだ大きなビルも無く田んぼや畑も通学路にあった。
この小学校では5年生6年生は、必ずクラブに入らなければならず、新学年に成るとクラブ探しが始まる。当時の小学校でクラブ活動があるのは珍しかったと思う。
「マンガクラブ? そんなのあるんけ!」「そうじゃマンガクラブ!」そう答えるのは同級の三好栄二だ!
そして、俺と三好はマンガクラブに入った。
「マンガってどうやって描くじゃー」もっとも当たり前の疑問だ。「6年生の上級生が描いたマンガを見たが、どえりゃあうまいけん!」三好が感激しながら言った。「ほんまじゃけーありゃあプロになれるな」
私も同感した。
(とにかくうめぇーんじゃ)
どんな絵だっのかは覚えてないが、「あんなまんが描きてーっ、どうやったら上手く描けるんじゃ!」三好の目は輝いていた。
中学生になったら、私と三好のマンガ家になりたいという感情は大きくなっていた。三好とはクラスが別々になったが登下校は一緒に行っていた。
中学にはマンガのクラブは無く、美術部の存在はあったが二人とも美術部には入る気はなかった。
放課後二人でマンガについて語る事が多くなっていた。他の人はやはり興味がないようだ!
「マンガって何に描くんじゃ!」三好が突然言いだした。確かにいつもノートに枠をひいて描いていたが本格的なマンガは何一つ分からなかった。
「ホンマじゃ、どこに売ってるんじゃ!」私も何も考えてない事に気がついてしまった。
ネット環境がない時代である。
田舎者はどうすれば良いか分からなかった。「そう言えば、小学6年生の付録でマンガの描き方っやつがあったと思うじゃが探してみるけん!」三好は言った。
「あったら明日もってくるけん、楽しみにしとんしゃい」
次の日の放課後、三好が私のクラスにやって来た。
「これじゃー、付録!」「読んでもよー分からんのじゃー?」確かにちんぷんかんぷんである。
「なんか用紙に180×270ってなんの寸法じゃ?」
「下書きはえんぴつで書く」
「黒インクで付けペンで描く?」二人共「???」であった、マンガの描き方といっても知らない事だらけであった!周りにマンガを描いている人は居ない、だから聞くことすら出来ない。
解説1
マンガ雑誌の応募要項においてヨコ寸法が180mでタテ寸法が270mの枠に描くということ、用紙はケント紙である。B4ケント紙はヨコが255mタテが360mの用紙である。
現在では画材屋さんで漫画用の専用用紙を売っているので購入すると良い。その種類も色々あり紙のあつさで初心者とプロ用がある。初心者は少し厚手の方が描きやすいと思う。
画材屋は文房具店とは違いがあるので間違わないように!文房具店は絵描きさんの道具はほとんど置いてないと思う、特にマンガ用具は!
ネットで探すと全て買えます。
この時代B4のケント紙など何処にあるか分からない!
「付けペンって習字の授業でペン字で使ってたやつか?」三好はいった。「そうだけど、あれとは形がちかわんか?」マンガの描き方のたかでは3種類載っていて、マンガ家がよくつかうのがGペンだとあった。
ペン習字で使っているのはカブラペンである。
三好は成績が良かったから多分高校は別々になる気がしていた。
高校受験になると、やはり三好と私は別々の高校に通うことになり時たま会う事があったが、2年になると私は私の通う学校の近くの県営住宅に引っ越してしまい、三好とは会うことがなくなった。今みたいに携帯の無い時代なかなか気軽に会いに行ける距離ではなかった!
自然と疎遠になっていった。
後に三好栄二とは、ある所で思わぬ再開をすることとなる。
だが、思わぬ出来事が待っていた。それは、後ほど語るとする。
高校になってもマンガ家の情熱は冷めず、黙々と漫画を描いていた。母親はいつか熱が冷めるものと思っているようである、あまり賛成はしてない感じを醸し出していた。
高校の3年間でも想いは変わらず、大阪の専門学校へ進学し2年で無事卒業した。
解説2
ペンには色々な種類がある。
カブラペン
Gペン
丸ペン
よく使われているのがGペンで、人物を描くのに強弱が出しやすい。
カブラペンは少し硬めなので背景に適している。
丸ペンは細かな線が描ける。
スクリーントーン
影や模様を付けるためのシール状になった物。
カッターナイフで型取り、削る事が出来る。
1983年世間では、東京ディズニーランドが開園、任天堂がファミリーコンピュータを発売し街中が大騒ぎになった年に、20歳になった日野賢人は篠崎プロダクションへ入った。
半年が過ぎた頃には原稿には慣れたものの、まだまだ重要なコマはやらせて貰えなかった。
だか、全体の作業効率は大幅に上がっていた。
篠崎プロのスタジオではいつもラジオが流れている。関西の放送局で毎日同じ番組が流されていた。
邪魔になるかと思うのだが、意外と効率が良くリラックス効果もあるかも知れ無い。関西のラジオはなかなか面白く、時にはラジオに突っ込んでいたりもする。
コミュニケーションツールにもなっていた。
日野賢人もようやく働くリズムを掴んできた感じだ。
昼休みは4人それぞれであった。
尾崎チーフはいつも弁当を持参する。
江山はパンをいつも食べ、ご飯類を食べるのを見た事がない。
水田と日野は商店街の弁当屋に買いに行っていた。篠崎先生は昼は自宅へ食べに帰る、それがそれぞれの日課となっている。
「尾崎チーフ、それって作って貰ってるんですか?」日野が尋ねた。
「ヒノさん知らんかったんか、チーフって結婚してるから愛妻弁当やで!」水さんが言った。
「えっ、尾崎チーフって結婚してるんですか、知らんかった」「まあ、まあ……」尾崎は少し照れていた。
尾崎はプライベートをあまり話さない、謎の多い人物であった。
「ラブラブですやん〜」「あちちっ!」
「ヒノさん、それって小学生並みの突っ込みやで〜」
水田と日野は半分尾崎を冷やかしていた。
ピーンポーン
その時、チャイムが鳴った。
「ボク出ます」水田がご飯をお茶で流し込むと、席を立ち部屋のドアを閉めて玄関に向かった。
しばらくするとドアが空き、少し困った様子で水田が入ってきた。
「水さん、どうした」
「なんか漫画を見て欲しいって言う、若い男の子が来てるんやけど、どうしましょう!」
まあ、雑誌に情報を載せてるくらいなので、飛び込みの持ち込みや、先生のサインが欲しいと言うのは良く有るのだそうだ。
「まあ、先生14時ぐらいまで戻ってこ無いから、俺が対応するわ」尾崎が弁当を途中にし玄関に向かい、青年を応接室に案内した。
応接室に尾崎と若者が入って20分が過ぎた頃、扉が空き尾崎が若者をスタッフの部屋へ招き入れた。「ここが作業をしてるところです」
「あのー、少し原稿を見ても良いですか?」「どうぞ」尾崎が自分が描いた原稿を何枚か若者に渡した。
若者は言葉を失っていた。
まあ、当然である初めて生原稿を見たからだ。
「ありがとうございました」若者は尾崎に原稿をかえした。
「これ、彼が描いたマンガです、少し見てあげて」尾崎は彼の原稿を我々のまえに置いた。
「ヘェ〜、よく描けてますね」江山が言った。
「トーンを使って今風の絵柄ですね」と、水田が続けた。
「……」日野は無言だった。
まあ、デッサンは狂っている、と日野は思った。日野の目もプロとして芽生えはじめたのかも知れない。だか、言葉には出さなかった。
それは、自分自身で気付くべきことなのだ。
「あとは、作品を完成させる事です」
尾崎は続けた。
「今回は作品をみましたが、編集者に投稿や賞に応募する場合は完成作品しか見てくれませんので注意して下さい」
「下書きだけや、途中の物は作品として認めてくれないのが、この世界です」
若者は、言葉を失い、顔は真っ赤になっていた。
「ありがとうございました」若者は恥ずかしそうに自分の原稿を持つと、頭を下げながら帰っていった。
「こんな事ってよくあるのですか?」
日野は尾崎チーフに尋ねた。
「時々あるよ、自信満々で強引にアポなしでくる人が。でもね、ほとんどが未完成でもってくるから評価のしようがないよ」
「まあ、無下に追い返すと先生に怒られるし、漫画家を目指す者には一つアドバイスをしてやってといつも言われているので」
まあ、彼らもどうしたら良いか分からず、行動に出てしまう、日野もついこの間までの自分自身と重なっていた。
「さあ、作業始めようか」尾崎は静かにいった。
つづく
ありがとうございます。