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その〝人間〟は玄関で靴をキッチリと揃えると、ふうとため息をつき居間に向かった。六畳ほどの部屋であり、とても広いとは言えないが、一人暮らしの〝人間〟にとっては何ら不便のない空間であった。隅にベッドを置き、そこに横たわって見られるように向かい側にテレビがある。その横には小さな棚、上にはパソコンが置かれ、中には何冊かの本。床にはカーペットを敷かず、かと言って衣服や雑誌などが散らかされているわけでもない。部屋の中を飾る装飾品は一つとしてない。非常にこざっぱりとした部屋だ。ある意味では全く生活感がない。
〝人間〟はベッドに腰を掛け、そのまま後ろに倒れた。危うく、壁に頭をぶつけるところであったが、意外とベッドの横幅は広いらしく、数センチのところで無事だった。濁った目で天井を見上げる。そこには特異な形の染みがあった。何やら人の顔のようにも見える。〝人間〟はそこに怨念を見ていた。この染みは、自分に対して向けられた怨念そのものである。しかし、彼らはこの自分のいるベッド、この世界に下りてくることは出来ない。ただ、怨念としてだけ、見つめる他はない。それと同じようにこっちも向こうに行くことは出来ない。行く必要がない。〝人間〟はニヤリと笑った。あの怨念に何の恐怖も抱かなかった。寧ろ嘲ってばかりいた。染みはあんなに恨めしく自分を見ているのに、自分は嘲笑でもって相手を見ている。その事実が、より一層笑みを強めた。
ベッドの頭のところに置いてあったテレビのリモコンを取る。そしてテレビに向けて電源ボタンを押した。ニュース番組。興味はない。何も、面白い事件などない。この世の中を震撼させるような、度肝を抜くような事件など、そうそう起こりはしない。つまらない世の中。現実。社会。人類。家族。グローバル化。偏差値。革命。政治思想…。
クソくらえだ。この世の中は腐っている。面白いことなど何もない。昔はもっと楽しかった。もっと心がワクワクした。世界の全てが輝いて見えた。全部が奇跡に見えた。何故?何故だろう…。それは無知だったから。無知であることは『悪』なのか?人間は無知である方がいいのではないか?子供は無知だ。無知ゆえに、毎日が楽しい。無知ゆえに、毎日が幸せ。無知ゆえに、毎日が摩訶不思議…。
全てが科学に裏付けられた世界。人の心ですら哲学やら何やらでほじくりまわそうとしている世界!反吐が出る!違う、実際には、世界にはどう考えても説明のつかない怪奇が潜んでいる。自分は知っている。前にあの男に出会った時、確かにそれを見た。そして、安心した。まだ、世界は広がってくれる。でも、それすらも不思議でなくなったら?あの男にとってはとっくに不可思議なことではないのでは…。
突然、〝人間〟はガバと起き上がった。その見開いた目には驚くほど純真な心が潜んでいた。少年の日に誰もが持っていた輝いた目。〝人間〟はその目で、テレビを食い入るように見つめた。
「…見つかったのは桂木志乃ちゃん、事件当時六歳の遺体。志乃ちゃんは十年前の東京と連続幼児殺害・誘拐事件の第一の被害者と見られており、十年間行方が分からなくなっていました。今回は…」
〝人間〟の口元が、また一層、緩んだ。