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乱北の自宅から電車で十分程のところにその家はあった。川沿いの道の脇に建てられ、近くには高架橋、また、川向かいには背の低い雑草ばかりの空き地がある。
二人はその白い家の前に立った。どこにでもある普通の洋風二階建て住宅で、外壁は真っ白に塗りつぶされている。両脇には狭い間隔で別の家が建てられている。乱北はまるで喪服のように真っ黒なスーツに着替えていた。新巻がなぜそんな服装なのかと問うと、外での仕事ではこれと決めている、ポリシーだと言い張った。新巻もスーツであれば問題はないと思ったのでそれ以上何も言わなかった。第一、彼女も仕事着のスーツである。
「ここが噂の家です。そもそもはこ…」
「詳しい情報はいい。あまり先入観を持ちたくない」
推理小説の探偵みたいなことを言う奴だなと新巻は思った。
「とりあえず、この家の人に聞いてみよう」
そう言って乱北はずかずかとその家の敷地内に入り込んでいった。新巻は慌ててそれに着いて行く。やる気が無かった割には積極的だ。玄関の前に行くと何の躊躇いもなくインターフォンを押す。中から様子の見えるカメラ付きのものだ。
「…大丈夫なんですか?何もアポとってないですよ」
「そこを何とかするのは君の役目だ」
乱北は一歩下がると新巻の両肩を両手で挟むようにして掴み、インターフォンの前に押し出した。
「…え?ちょっ…」
カチャと相手が応答を始めた音がする。つまり今家の中にいる者はこちらの様子を見ているのだ。新巻の胸がドキンと鳴る。
「…はい」
インターフォンの向こうから女の声がした。新巻は覚悟を決めた。
「あ、えー、あの…怪しいものではございません。わたくし、オカルト系ホビー雑誌、月刊『アトランテ』のものでして」
「はあ…」
この時点でまだ話を聞いてくれようとしていることに新巻はほっとした。
「そのですね、えーっと…こちらの家に、その、何というか、所謂ところの幽霊というものが出るという噂を聞きまして」
「…」
相手は黙ってしまったが、どうやらインターフォンの接続は切っていないようである。
「実は…今私の後ろにいるこの真っ黒な男は超有名実力派霊媒師でして、是非お力になろうと思いまして」
後ろで興味なさげに立っていた乱北は途端に眉をひそめ、怪訝そうな顔つきで新巻を見た。彼女の方はその視線を感じてはいるが特に気にする風でもない。
「それででして、いつもなら非常にお高い除霊料を払うところなのですが、今回は『アトランテ』の方でギャラを払うこととなっているので、そこのところはお気になさらず」
「…お待ちください」
どこからどう見ても怪しさしかないこの二人をインターフォンの声の主は通してくれるようである。新巻は一先ず安心した。
「おい、君」
乱北は新巻に顔を寄せてくる。
「言っとくがな、僕は除霊なんかできないぞ。君は幽霊の危なさを理解していないようだが…」
「大丈夫ですよ…多分」
新巻は乱北の話を遮るように手をひらひらと振った。
しばらくするとガチャと扉が開き、その隙間から不安そうな顔をした、三十代くらいの女性が現れた。彼女は乱北と新巻を見ると少し頭を下げる。
「どうも…」
彼女の顔は影が落ちたようにどことなく暗く、それは乱北たちの突然の訪問を怪しく思ってのせいか、それともやはりこの家にいると言う『何か』のためか、新巻にはどちらともつかなかった。
「その…本当に除霊していただけるんですか?」
相変わらず不安そうではあるが、その声の中に一定の期待が潜んでいることを新巻は見逃さなかった。すかさず隙間に手を入れ、扉をガシと掴んだ。
「ええ!しますしますよ、しますとも!幽霊、ドラキュラ、ゾンビからファラオの呪いまで何でもござれですよ!」
新巻のハッタリを乱北は冷たい目で見ていたが、女性にとっては心強い言葉であったらしく、彼女はすぐに扉をしっかりと開けると、
「どうぞ」
と言った。彼女が背を向けたのを確認すると新巻は乱北の方を振り返り、得意げな顔で親指を立てて見せた。それに対して乱北はねぎらうこともしなければため息をつくこともせず、無表情のまま横を通って家に上がった。
「奥さん、あなたが見たそれはどこに『出た』んですか」
声をかけた乱北に、女性は少し体をびくつかせながら答えた。
「あ、えっと、二階です。一階には出ないんです」
乱北は「なるほど」と言うと、玄関から伸びる廊下の先にある階段へずかずかと向かって行った。女性もそれに着いて行く。新巻は何やらハイヒールを脱ぐのに手間取っている様子だった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
その声に少しの反応も示すことなく、乱北は狭く暗い階段を上った。その階段は途中で折れて旋回するようになっている。踊場へとたどり着くと、左手、右手、正面にそれぞれ部屋があった。乱北はそれぞれの部屋に一瞥をやる。後ろから女性が重い足を一歩一歩上げながらやってきた。
「奥さん、ちょっとお尋ねしたいことがいくつかあります」
「はい、何でしょう」
女性は息を切らしていた。
「まず、その出る霊というのはあなたやあなたのご家族に危害を加えたことはありますか?」
「いえ…ないと思います」
「では、次にこの家に関してですが、見たところあまり新しくはなさそうですね。築何年ほどでしょう」
「えっと…主人と結婚してすぐだったので、二十年ほど前かと」
「なるほど。霊が出るようになったのは最近ですよね?」
「そうです。今までこんなことなかったのに…」
「ふむ…家のリフォーム等はしていないですよね?」
「ええ、してな…ああ、でも塗装は変えました」
「と、言うと?」
「外壁を替えたんです。崩れる危険性があるとか何とか…そこら辺は主人に聞かないと分かりません。とにかく古くなっていたので壁を替えて、その時に色も替えたんです。前はベージュっぽい色だったんですけど、娘が白がいいって言うので」
「ははあ。そうですか…分かりました。ところでこの地域で他に幽霊が出るだとか聞いたことありますか?」
「いえ…ないと思いますけど」
「最後にですが、特にその霊が出やすい部屋とかってありますか?」
「それでしたら、そこの部屋が…」
女性が指したのは階段を上がって左手にある部屋だった。扉は開いている。
「では、少しその部屋をお借りしてよいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
そして乱北は女性に一階で待つように言った。階段を下りる彼女と入れ違いに、新巻がやって来た。
「ちょっと!待ってくれてもいいじゃないですか!さっきまであんなにやる気なさそうにしてたくせに…」
「いいところに来た。君の出番があるかもしれない」
「え?」
「君の見たがってるものも見られるかもしれないぞ」
乱北は例の部屋の敷居に立った。乱北から見ると横長の部屋で、正面には正方形の小さな窓、右側には床から天井まで伸びる長い窓、左側にはクローゼットがある。部屋の中にはあまり多くのものは置いておらずさっぱりとした印象を受ける。あるのは入り口すぐ右隣のドレッサー、左隣のタンス、クローゼットの正面にある小さな回転椅子であった。
「白いね」
「え?」
「この部屋、壁紙が白いんだ」
乱北の言う通り、その部屋の壁は真っ白だった。彼は部屋の真ん中に立つと、腰に手を当てて部屋中をぐるりと見まわした。彼は一点一点を丁寧に凝視し、何かを探しているようだ。新巻はそれを不思議そうに見ている。一通り部屋のなかを見ると、入り口から見て正面にある小さな窓を開け、そこから首を出した。すぐ目の前には隣の家が迫っている。下は互いの家の境界線となるブロック塀があった。右の方に目をやると先ほど歩いていた道路、それを挟んで家々が並んでいる。左の方は家のすぐ後ろに緩やかな川が流れていて、その向こうには一段高く土が盛られた、丘のような空き地があった。その上には高架橋が建ち、新幹線が走っている。その轟音が乱北の耳にも嫌というほど届いた。
「ふん」と一言言うと、首を引っ込め、窓を閉めた。そしてカーテンを閉める。
「新巻君、部屋の中に入って扉を閉めてくれ」
新巻は言われた通りにしてスライド式の扉を閉めた。
「鍵も閉めて。あとそこのカーテンも閉めてくれ。出来るだけ日の光が差してこないように」
従順に鍵やカーテンを閉める。新巻は別段断る理由も無かったし、何よりも乱北は真剣な顔つきをしていた。部屋の中が大分薄暗くなる。乱北はポケットに手を入れると、何かを取り出した。一本の太い蝋燭である。次に胸ポケットから一本のマッチを取り出した。
「それじゃ、この部屋の中心に立って、この蝋燭を持って」
新巻は言われるまま部屋の中心に立ち蝋燭を素手で掴む。
「よし、それじゃあこの蝋燭に火をつけるから動かさないように持って…」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
マッチの火をつけようとしている乱北を慌てて手で止めた。
「ん?何だよ」
「いやいやいや、そのまま火をつけたら蝋が垂れて私の手が火傷しちゃいますって」
「何だそんなことか」
「そんなことかじゃないですよ!」
乱北は面倒くさそうな顔をしながら、蝋燭が入っていた方とは別のポケットを探り、一組の手袋を取り出した。
「これつけとけば大丈夫だ」
それを受け取ると、新巻は不審そうな表情を見せて、
「本当に大丈夫なんですか?こんなんで」
「こんなんって言うな。高級品だぞ」
「そういうことじゃないんだけどな…」
乱北はそれ以上新巻の文句を聞かず、今度こそは確実にマッチで火を灯し、新巻の持つ蝋燭に丁寧につけた。
「じっとしてろよ」
乱北は少し新巻から離れると、またポケットを探りだし、数珠やお札のようなもの、ではなく、懐中時計を取り出した。
「ふん…四時二十三分か。まあいい」
その時計を再びポケットにしまい、一度大きく深呼吸をした。その顔にはふざけた感じも、やる気のなさもなく、ただ真剣さだけが映っていた。
途端、乱北は何か呪文のようなものを唱え始めた。それは日本語とも英語ともつかぬ、かと言って世界のどこかに潜んでいる未開の地の言葉ともとれぬような音節を持ったものである。その呪文は一種の不気味さを持って新巻の耳に届く。この言葉は一体何だ?私は今何を聞いているんだ?彼女は自分が危険な領域に足を踏み入れているような気がした。確かにそこには自分が求めるような摩訶不思議で怪しい世界が待っていよう。だが、それは私が立ち入ってもよい領域なのか?今、乱北が唱える呪文は、この地球上のどの言語にも属さぬもの、それすなわち地球外から来たもの?はたまた、光の世界から追い出され、地下や海底のずっと奥底に忘れ去られた異形のもの?まさか、そんなクトゥルフ神話みたいなこと、あるわけが…。
不意に地面が揺れ始めた。地震?いや、そうではない。縦に揺れるでも横に揺れるでもなく、ただ不可解に揺れ続ける。振動。何かおかしい。乱北は気にする様子無く呪文を唱えている。今揺れているのは私だけ?まさか。この揺れはおかしい。何かおかしい!
新巻は酩酊した気分に襲われているのを感じた。そして、それと同時に部屋にある数少ない家具が一斉にカタカタと動き始めた。新巻は目を疑った。
「ポルターガイスト!」
家具が宙へと浮き始めた。それは明らかに人間業ではない。ここに、疑いようなく人間ならざる者がいる!床が揺れる。家具が舞う。乱北が呪文を唱える。新巻はどうすることもできなかった。今自分が何をどうすべきか、さっぱり分からなかった。不思議なことに恐怖はなく、ただ傍観者として見ているしか出来なかった。それでも、乱北に言われた通り火のついた蝋燭だけは何とか持ち続けた。
揺れが止んだ。いや、先に止んでいたのは呪文の方だったろうか。家具も床に根を張ったように立っている。だが、それはこの部屋に入った時と少し位置がずれていた。どうやら夢ではなく、本当にポルターガイストがあったらしいことを新巻は悟った。
その部屋の中にもう一つ、明らかな変化があった。部屋の入り口から見てすぐ右の隅、そこに白い服を着た少女が体育座りをしていた。彼女はじっと乱北と新巻の方を見ている。年は七歳くらいだろうか。可愛らしい顔立ちをしているが、その色は服に負けじと青白く、目はもの悲しい淀みを見せていた。新巻は彼女に背を向けていたが、乱北が優し気な目でその方を見ていたので気になって振り返った。そして、その少女の存在にギョッとし、危うく蝋燭を落とすところであった。
「…先生!この娘、ゆ…」
「しっ!少し静かにしてろよ」
乱北はゆっくりと少女の方に近づいて行く。少女はそれをじっと見つめていた。果たしてこの男は自分の敵であるのか味方であるのか、そんなことを確認するような目つきであった。
少女の目の前に着くと、乱北はしゃがんで目線の高さを合わせた。
「こんにちは」
笑顔で言った。その柔和な顔つきは新巻に見せていたものとは別人であるかのように相手に好印象を与えた。少女は恐る恐る声を出した。
「…こんにちは」
か細く、悲しい声色だった。新巻は背筋にぞくりとするものを感じた。
「可愛い顔してるね。その服も、綺麗だ」
「…これ、お母さんが買ってくれたの。私、白が好きだからって」
「そう。白が好きなのか。優しいお母さんだね」
「うん。お母さんは優しい。それにすっごく綺麗なの。おじさんにも見せてあげたいな」
「おじさんは参ったな」
乱北は声を出して笑った。それにつられて少女も微笑む。しかし、それはすぐに止んだ。
「…でも、最近お母さんに会えてないの」
「…そっか…お母さんもきっと心配してるね」
「うん」
「でも大丈夫。きっと近いうちに会えるよ」
「本当?」
「本当さ。ただ、そのためには少しお兄さんの質問に答えてくれるかい?」
「うん」
乱北は新巻の方を振り返り、メモをするようジェスチャーした。
「え?でも蝋燭は?」
「蝋燭持ったままメモしろ」
小声で無茶を言う乱北に辟易したが、そこは記者魂を見せ、左手で蝋燭、右手でペンを持ち、右足をあげ、その太ももを机代わりにして手帳を押し付け、何とかメモを取れる体勢となった。タイトスカートのため、ともすれば下着が見えそうになったがそれを気にするでもなく、乱北の方も興味を抱かなかった。
「お嬢ちゃん、名前は何て言うの?」
「しの。『かつらぎしの』って言うの」
「しのちゃんか。いい名前だね。おうちはどこにあるのかな?」
「東京の…どこか。よく分かんない。忘れちゃった」
「うん、別に構わないよ。家族は父さんとお母さんだけ?」
「ううん。お兄ちゃんとマックがいる」
「マック?」
「うん。毛がふっさふさでね、すっごく気持ちいいの!」
「ああ、なるほどね」
「マックにも会いたいな…」
「そうだね…ところで、今いくつかな?」
その問いに答えようと少女は口を開けたが、言葉が出てこなかった。一瞬、空気が止まった。彼女の顔の表情が見る見るうちに変わった。わなわな震えたその顔には、悲しみと恐怖と怒り、その全てが詰まっていた。乱北はたじろぐことなく彼女を見つめている。
「…私…何歳?…私は…六歳…ついこの間まで五歳だった…多分…そうだった…七歳?…そうかも…でも…でも…わかんない…わかんないよ…」
その瞳から涙があふれ始めた。新巻はまたゾッとした気分になった。何か、まずい気がする。だが、乱北は表情一つ変えない。
「落ち着いて。落ち着くんだしのちゃん。よし、質問を変えよう。君は今どこにいる?」
ゆっくりとであるが、ずっしりとした重い声であった。しのは両手で顔を覆った。
「…寒い…寒いよお…嫌だよ、怖いよ…暗いし…お母さん、お父さん…会いたいよ…お兄ちゃんも、もうわがまま言わないから…マックも…助けてよ…」
「ら、乱北先生、大丈夫ですか?」
新巻が耐えきれず声をあげた。
「馬鹿!口を挟むな!」
突然しのが立ち上がった。驚くべきことに、その身長は160センチメートルほどの高さがあった。先ほどまで、確かに幼児体型であった彼女の体は一瞬にして成長を遂げていた。その顔も、思春期の少女のものであった。ほっそりとしたスタイル、スラリとのびた白い手足、それを包む真っ白な服。彼女は不気味な白さを持った美しい顔を怒りの形相にして乱北を見下ろしていた。
「誰⁉誰なの乱北って!わかんない!知らない!いや!あなたが私を…私をこんな暗いところにおしこめたの⁉遊ぼうって言ったのに!いや!嫌い!だいっきらい!助けてよ!怖いよ!いや!」
その瞳から涙がとめどなく流れた。しかし、その水滴は床に落ちると染み込むことなく消え去った。乱北はゆっくりと立ち上がった。それと同時に、少女はつんざくような悲鳴を上げた。再び家具が舞い上がる。先ほどよりも激しく飛び交った。大きな音と共に窓ガラスが一斉に割れた。カーテンを飛び越えてくるその破片は乱北と新巻をスローモーションのようにしてゆっくりと襲い掛かる。地鳴りが鳴り響いた。新巻は恐怖を感じた。今までにない恐怖、絶対的な、超自然的な存在による力! まずい!
「新巻君!ろうそくの火を消せ!」
その声を聞いてか聞かずしてか、新巻は急いで蝋燭の火を吹き消した。
一瞬にして地鳴りが消えた。家具もまた床に置いてあった。ガラスの破片が床に散らばっていた。外ではいつも通りの毎日が続いている。子供たちの声やカラスの鳴き声、電車の通る音が平和に聞こえていた。ガラガラと扉が開く。
「な、何があったんですか?」
この家の住人である女だ。部屋の光景を見たその目には驚きと非難の色が混ざっている。乱北はおどけたような表情をした。
「あ、いえ、何でもありません。もうほとんど除霊は成功みたいなもんです。ああ、ガラスの方は…新巻君!」
「はい⁉」
呆然と突っ立っていた新巻は姿勢を正した。
「このガラスの修理は『アトランテ』の方で何とかするのかな?」
「え?あー…はい!します!何とかします!してみせます!」
ほとんどやけになっていた。
「よろしい。では後日ガラスの修理業者が伺いますので、この後片付けだけはよろしくお願いします。それではお邪魔しました。ごきげんよう。いくぞ新巻君!」
「あ、はい!」
そうして二人は状況を掴めずにぼーっとしている女を残して家を出た。