トリエステ
坂道を歩いていると海風の匂いがして途中で振り返りたくなった。しばらく嗅いでないボーラの匂いが混じっていたような気がして振り返ってみたが、風も誰も後ろから付いてくるものはなかった。ユリウス・カエサル時代のローマへ続く由緒ある石畳通りの坂道だというのに観光客すらなく視界には誰も入ってこない。坂道に添って石で組み立てられた半円形の壁が歴史層を積み立てているみたいにそそり立っている。まだ午前中なのに太陽も意識してさけているのだろうか、暗く密かに静まりかえっているようだ。背後に構える山の連なりが海岸近くにまで迫っている地形で坂の美しい街とされていうるわしのトリエステ。
ここはまぎれもなく自分の生まれ育った街なのに近代経済に見放されてから、こんなにもさびれたよそよそしい街だったかしら。
石畳の坂をのぼりきる少し手前左側に30年間も暮らした屋敷のがっしりした鉄の門が見えてきた。実家でなくなってから何年経つのだろう。何代にもわたりこの地に根をおろした名門だったから親戚や知り合いは多かった。しかし現在は潮が引くように音信不通になりトリエステのどこにもあてがあるわけではなかった。一人になって新しい出発をするためにトリエステに戻って来たのだと口に出してまで何度自分に言い聞かせたか。でも実際はなにも決まらず、どうしてよいかもわからずに足はかって住んだ屋敷に向かっていたのだった。さまざまな思いが錯綜するなかで通いなれた坂道や両側にそそり立つ石の壁を懐かしく思えるだろうと考えたのはそもそも間違いだったらしい。アドリア海からくる風ボーラからもそっぽを向いてここは本当に自分の生まれ育った街なのかも疑わしくなってきた。八歳の頃、自分はトリエステの女王と思っていたことも嘘だったのだろうか。トリエステのねぼけたような情景と不確かになってしまった過去がゆらゆらと揺れ、かわいた空気に混じってのっそりと降りてきた。
ビアンカはウイーン風の窓から光を入れたばかりの明るい居間にいた。高台にある屋敷から眼下に開けた青い空がひろがり、さらに碧い遥かなダルマッイアの海と重なって吸い込まれそうに見える。
「おはよう!おとうさま。ごきげんはいかが?」
「みてごらん!雲ひとつない青空だよ。」
「あら、ほんと 今日はなにしようかしら?」
「今日も楽しい一日が来るよ。ビアンカ!」
「おとうさま モンファルコ-ネの御船はもうできたの?」
「モンファルコーネの船だって?誰に聞いた!」
「だって、毎年この時期は御船のお披露目があるじゃないですか。」
「あぁ 今年は遅れていてね・・」
「モンファルコーネのドックから海へ出てゆく船を見るのが好きなのよ。」
「オーストリア・ロフィート社の資本が、ちょっとね。」
「パパの造った御船が海に浮かぶ瞬間はドキドキよ!」
「進水式は、いつになるか。」
「セレモニーは?」
「そんなこと、心配しないで 出かけておいで!」
「はぁーい!」
「気をつけるのだよ!」
と父の声がする。その声を聞きながら、テラスまで歩を進めると、ビアンカは手の指をおもいきり開き光と一緒に輝く「しあわせ」をつかみ取っていた。
ビアンカの父親はハプスブルグ一族の末裔として生まれ、琥珀の発掘権と海運業を代々引き継ぎトリエステに君臨していた。さらに名門ハプスブルグ家の名のもとに、先の戦争後も昔の多民族を率いた祖先にならって政治的にもトリエステに貢献した。いわゆる何もかもをハプスブルグ家の名を利用してやや狡猾に行動し成功を治めた。それから30年経った今海運業は終末をむかえていた。
溺愛したビアンカを30歳になる前に嫁がせようと名家の関係をたよったが、そんな時代はとうに過ぎていた。家柄と美貌と優雅な身のこなしだけを望まれてミラノの成り金に嫁いだビアンカは当然しあわせとは縁のない暮らしを強いられた。成り金と揶揄される金持ちの選択はどれも奇行であり人々の理解をこえる。夫には何人もの愛人がいて子供の数は何人いたのか召使の中で誰も教えてくれる人はいなかった。週に何回も催される仕事を兼ねたパーテーのお飾りに娶られた花嫁の体に夫は指一本触れなかった。結婚後のことは父親には決して語らず、父も思わしくなくなってしまった事業のことは娘にもらさなかった。お互いを思いあってのことかあるいは遠く離れたことで関心を持つまいと考えてのことだったのか知るよしもない。不干渉を続けて10年後に父親は破産に追い込まれ突然の動脈流破裂にて他界。父親の死を待っていたのであろう結局ビアンカは追い出される形で離婚させられた。
幼い時からチヤホヤされ王女様のように眼も耳も塞がれた環境で育ったということはビアンカになにをもたらしたのか。何もかもを避けて知ろうとしなかった報いがビアンカの姿だった。自分の運命にたいする諦念と悲しみが入り混じった気持ちが思い出を募らせた。ビアンカの中での思い出はいつも通低音のようにかすかな恐怖となって気持ちをゆらしていた。ビアンカは自分の中で左右に満ち引きする感情や考えの不確かさを持て余し処理できなかった。
塀で固められしっかりと鍵のかかった門をいくら眺めていても誰も出てくる気配もないし屋敷は牢屋のように静まりかえっている。ビアンカに幸福だった頃の記憶の断片がフラッシュバックしてセピア色に染まり止まった。
足だけが勝手に動き、ふらふらと暗い石の塀に押し出されるかのようにカフェ・トリネーゼ・ディ・ヴェルムットまでおりて行っていた。間口が狭く目立たないい玄関でも足が憶えていた。全面鏡張りであまりひろくない気取った居間みたいなカフェは、シャンデリアも調度品古き良きウイーン風でマホガニーの甘い曲線を奏でていた。華奢な美しい椅子には濃い緑色の絹が張ってある。
そこの窓側の指定席で何百回カフェ・ラッテを口にしたことか。お砂糖をたっぷり入れたカフェ・ラッテの味が蘇り限りなく父親に愛されていた自分をいとおしく思った。その頃の栄光と愛のかけらが鏡のどこかに映っていなければならないのだが、異常にキョロキョロする目は怠惰な倦怠感を滲ませ、誰かが何かを言ってくれることを待っている姿はこの場には似つかわしくなかった。たとえ無意識にせよ、以前は自然と差別する側に居たビアンカ。
今でも金持ちしか身につけないブルガリのジュエリーや有名デザイナーズのオート・クチュールのスーツを着ていても挙動不審のせいで店内の人々にはニセモノに見えるのだろうか。ひそひそと聞き取れない話声はビアンカをあざ笑っているかのように聞こえた。栄華を誇った時は消滅し色あせて消え、くっきりとした色つきの現実が足元をずるずると引きずっていた。ビアンカにお金と偽物の地位によって支えられていた誇りという代物が細かい粉となって無残に降りそそいだ。耐えられないほどのさまざまな感情が体中に蠢き、冬の蠅のようにうるさくブンブン騒いでいた。ビアンカは目に見えない視線の不安と粉にまとわり憑かれて外に押し出された。
傲慢だった過去から逃げるように空虚なトリエステをただ歩いた。昔の瀟洒なウイーン風建物のウインドには有名ブランド商品のドレスやバックアクセサリーなどが並んでいるが、エルメスもアルマーニもまるで生彩を欠き高級品には見えない。むしろうっすらとほこりの匂いがするのはビアンカと同じだった。
足の記憶をたよりにうろうろしたあげく道が終わったところにみなれた古本屋があった。本を買いもせずに、うすらでかい金髪のおじさんを冷やかしに来ていた本屋だ。学生にたいしてもうやうやしい態度でトリエステの誇る詩人ウンベルト・サバの話をしたがったが、その頃キーツにかぶれていたビアンカはサバの詩情など解るはずもなかったが、かといってあの頃はキーツの詩の透明性を、どれだけ理解していたのだろうか。
自分の心や思いも見えないままに歩道に置かれたベンチに腰をおろしていた。すぐ隣で何か話している声が聞こえたが、何を言っているのだろう言語として成り立ってない言葉だ。トリエステはかってオーストリア・ハンガリー帝国だった。現在はスロベニアと国境を接しているし買い物はスロベニアが安いから人々は容易に国境を入ったり来たりする。ビアンカもドイツ語・イタリア語・スロベニア語が理解できた。でも同じベンチで話している老婆たちの話す言葉が解らなかった。ふぬけになった体に頭もおかしくなってしまったのかと思わず老婆の顔を見つめ、こんにちはといってみた。ボン・ジョルノと挨拶はイタリア語でかえって来たがすぐにまた知らない言葉で話しあっている。
ぼんやりとトリエステの過去に触れた気がした。過去にはフランスにも征服されたことがあったこのあたりの地方トリエステはおもいきり多民族国家なのだ。そこで老婆たちの言葉はフリウリ言葉だと気がついた。幾人かの使用人がフリウリ語で話していたことがあったかもしれない。フリウリ語は口伝に等しい言葉らしく孫と話せない祖母が増えていると笑っていたことを少し思い出した。
しかしすべてにおいて記憶がおぼろげなのはビアンカの好奇心がすべての出来事において皆無に近かったからだ。好奇心が欠落しているのは父親が社会に俗世間に目を向けさせなかったからだったろうが。ビアンカからすると、あらゆる出来事にたいして出来るだけかかわらないようにしようと努めていた。それはビアンカにとって必要からくる無関心だった。長い時間の経過でいつのまにか関心を持たないことが幸福であると悟ったのかもしれない。疑問を持たないことが習わしになり、自分で考えることができなくなってしまった。ビアンカがおこなったことは考えないで思いめぐらすことだけでありビアンカは無関心の中で消滅してしまっていたのかもしれない。
やりきれないため息をもらし振り向くと古い建物の間から海の切れ端が見え、排気ガスを巻き込んだ太陽が不透明に縁取られた金色となってのぼっている。海の青さだけが変わらずに広がって青ざめた景色を作っていた。ビアンカにその蒼さから数少ない青春のひとコマがよみがえった。はらりと落ちた額の金髪をしなやかな指でかき上げる青い目の青年の仕草を思い出していた。
ダルマッアの碧い海からすっくと立ちあがった白亜のミラ・マーレ城はオーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の弟フェルナンド・マクシミリアンのために建てられた。お城の石垣から蔓薔薇が垂れさがり花を散りばめて咲き誇り、青い海にちいさな薔薇のピンク色を点々と映して波に動かされていた。この城にはマクシミリアンが処刑された後、狂人となってしまった妻シャルロットが住んでいたらしい。城はハプスブルグ一族が管理していたが、このあたりが、イタリアに併合された後トリエステ市に没収された。戦争が終わり世の中も落ち着いてくると、トリエステに集まる経済復興を望む人々が引きも切らずに、ミラ・マーレ城でパーテーを催した。
あの日の夕方、踊りに飽きたビアンカが白い壁に囲まれた樹木庭園に足を踏み入れ海風に吹かれている時だった。カテドラルの形に枝ぶりを模したトキワカシの間からいきなり若い男が出現したのだ。初心なビアンカは一瞬、青い目をした金髪の伊達男にうっとりした。ビアンカには恋と呼べることだったのかわからなかったが、キュウピットの矢はとどかずじまいに終わった。もちろん、評判の悪すぎる男に渡してなるものか、とあわてたビアンカの父親はその金髪男を何処かに追いやってしまった。娘を溺愛しすぎる父親の偏愛の結果、ビアンカはささいな感情すらも制限されてしまい無関心を増幅させられていった。
ビアンカの生きる毎日の時間はすべて父親の時間だった。海の上にそそり立った崖を前にして足がすくみこれ以上動けない状態があまりにも長い間続きすぎた。ビアンカの運命は必然によって空虚につくられてしまっていた。それらの過去の空の影は蜘蛛の巣のように張りめぐらされ重くビアンカの生きる時間に張り巡らされていた。
第二次世界大戦後イタリアは敗戦国にもかかわらず、ダルマッアの海を欲しがった。各国とすったもんだの結果トリエステを舌のように細長く切り落とした。そして端っこの崖の上に建っているミラ・マーレ城は、戦後何の経済的な機能も持たされずに、さびれてゆくトリエステに寄り添いながら空虚に佇んでいた。ビアンカはいたたまれずに海とは反対側のカルソ山を見上げため息をついた。と、後ろからリリア叔母さんの頭から抜けるような甲高い声を聞いた。
「ビアンカ!もう帰りますよ。」
「もう帰らなきゃダメ?まだ踊りたいわ。」
「くだらないパーテーはもうたくさんなの。さぁ 行きますよ。」
「まだ、踊りを約束した方がいますの・・」
「いいのよ!軽薄な殿方たちはほっといて!」
「バックを取ってこなければ。」
「おいそぎなさい。」
ミラ・マーレ城のパーテーが終わった後、幾日かはリリア叔母さんの家に滞在するのが習わしになっていたのだ。
そうだわ。リリア叔母様の館はまだあるかしら?
スロベニアとイタリアの国境チチャリアム山の麓の森の中に父親の妹リリア叔母さんの瀟洒で可愛らしい館があった。
息苦しいほどにびっしりと葉を付けた常緑樹が館を覆い尽くし緑一色だ。ピンク色の石を使った建物の右端の角部分のピンク色の石が斜めに欠けて葉にはさまりながら浮いているように見える。玄関までの曲がりくねった道は雑草もきれいに摘み取られているから誰かが住んでいるのだろう。
むかし、ハプスブルグ一族の末裔の誰かが建てたと言われている館。窓枠の飾りなどが、どこかシェーンブルグ宮殿を思わせる雰囲気の造りがまだ損なわれずに鮮やかに輝いて変わらずに存在していたことが驚きだった。たぶん叔母が亡くなった後は父の物になったのだが、破産した時に誰かに売却されたのだろう。ビアンカは美しく保存して住んでくれている今の持ち主に無言で感謝した。
山々にすっぽりはまり込んだような森の中の館には風も届かずビアンカを気遣うような静寂が動かずに居てくれていた。ぼんやりと立ちすくんでいるとかすかに楽しかった過去の時が呪文みたいな音になってあたりに纏わりついていた。亡霊に押されたみたいにビアンカは八角形に切られたピンク色の石に添ってはっきりしない輪郭をまさぐりながら玄関の方に歩を進めた。同じくピンク色の丸い柱が二重扉を真ん中にして立っている。ビアンカはリリア叔母さんがこんな森のなかにウイーン風な丸柱を持ち込んで恥ずかしいと言っていたことを思い出しながらピンクの柱を撫でて、昔の布の襞をひろげようとしていた。
その時!澱む空気中誰もいないと思っていた玄関の扉が音を立てずに開いた。
「イィゴル・・?」
「き・君は?」
「あなたが、どうしてここにいるの?」
「ビアンカなの?どうしてきみが・・?」
「まさか ここに 住んでいるの?」
「この館は君のものだよ。」
「えっ?」
ビアンカは一瞬いぶかしげな表情で言いながら、その口調からなぜ、どうしてという文字頭の中からは消えていた。ここで扉が開いたことは、不思議ではなく当たり前のことだという気がして、何も考えられなかった自分にはじめて話かけられると思った。ミラ・マーレ城でのパーテーが終わると必ず寄っていた館。
門から浮かれて奇声を発しスキップしながらくるくる舞ってピンクの柱につかまると、玄関の扉は決まってイィゴルが開けた。この館が出来る以前からこの森に暮らして鳥を捕まえる仕事をしてきたらしい森の番人一族。ハンガリーからユーゴスラビア、イタリアと国があちこちに変わってもチチャリアム山の周りの森と木々すべてを知り尽くしている民族だ。ビアンカの父親は破産を予感して森の権利と館をイィゴルの親に与えたのだという。両親が亡くなってもイィゴルは何も変わることなく館を美しく維持し森を守っていた。彼はビアンカとは幼いころから一緒に遊んでいてビアンカに使える下僕のような存在だった。イィゴルは近くの街ゴリィッアに住んでいて絵画の教師をしながら週末は森の手入れと館の管理をしているとのこと。何十年も変わらずに忠実な人がこの世に存在していたのか。
リリア叔母さんの居間には過ぎ去っていった時間の痕跡はまるでなく10年前のままだった。窓辺には短いボビンレースの白いカーテン、丸いテーブルにルネ・ラリックのランプ、ていねいに埃を取り払われているマイセンの人形などが過去の音を吸い込んで静かに置かれている。栄光と輝きの暮らしだった一族の光景が薄紙を通して密やかに垣間見えた。優しく入ってくる午後の光が統一されたフィレンツェ様式の家具を薔薇色に染めている。これは幻なのかしら?ビアンカは何もかも忘れて石像のように立っていた。
ビアンカの感情が生き残っている事を自分の裡ではどうしても現実とした説明がつかない。過去から追いやられてトリエステを歩きまわり、現実から押しつぶされてその上に覆いかぶさってくる不安と焦燥を感じていたビアンカ。普通ということの概念を知らず酸素の薄い極端な状況で育ったビアンカには阻止する行動さえも解らなかった。その中で暮らすしかなかったから自分の感情を止めあらゆる事柄には無関心をきめこんだ。その結果降りかかってきた今のこの状態を悲惨と捕らえる気力もなかった。ビアンカの辞書には悲惨という言葉はなかったし、何事にも意識しないことはおきてしまった現実に対処する気力も勇気もうばってしまうものなのだ。
それでもイィゴルの思いがけない忠実な真実に触れ、部屋をひとつひとつ覗いていった。ビアンカがいつも使っていた部屋も同じように10年前となんら変わったことはなく、クローゼットには10年前の洋服と靴、バック、アクセサリーがきれいに並んでいる。衣裳ダンスの引き出しを開けたり閉めたりして確かめても、10年間だれも触ったことがないみたいだ。幻影や魔法が物を支配する時間をとり籠めてしまったのか。こんなことがありうるのだろうか。軽い眩暈がしてビアンカはベッドの上に倒れこんだ。
朝が過去か現在か不確かな室内にまぶしく入ってきていた。ビアンカは目覚めたその目がみる本当のものを見たいと思った。神経を軽く撫でさするような太陽の光と生き物が感じる空腹がビアンカをすこし奮い立たせた。食堂に下りてゆくと朝の食事の用意を終えていたイィゴルはなにか言いたげにカップを持ちながら振り返った。
母親はイタリア人だったが父親がユーゴスラヴィアだったので、イィゴルは戦後ちいさな村がイタリアを選択したことでどんなにか虐められたことか。イィゴルは父親が使え信頼していたビアンカの家族を生涯守義務があると感じていたのだろうか。名前も血筋もユーゴスラビア系で体もがっしりと大きく目鼻立ちがくっきりとギリシャ彫刻を思わせるイィゴルはこんなにも美しい男だったのか。自由に流れる風貌、おおらかさと何かしら引きつける魅力、額にかかる巻き毛、意志を持った太くて凛々しい眉毛は人間そのものだった。
無垢と無知を取り違えていた思春期にはまったく気がついていなかったのだが、イィゴルは素晴らしい男として成長していた。そして成長しきれない私を待っていてくれたこと事態奇蹟にちかいことだった。待つという行為はなりゆきでも消極的行為でもなく、イィゴルの確信と決意であることを知ったのはイィゴルの輝く瞳からだった。
「ロッコロに行きたいわ。 まだ、あるのでしょう」
「覚えていたのだね。ロッコロを・・」
「子供のころ、よく遊んだもの。いつも二人で行ったわね。」
「もちろん あるさ。ビアンカはここへ来るとロッコロばかり行っていたね。」
「よかった!まだあって! ロッコロ、ロッコロ!」
「でも、 もう、一か所になってしまったけれど・・」
「どこの場所?」
「どこって君はひとりじゃ行けないさ。」
「すぐ、行きたいわ。」
周囲の木々にはまだうっすらと夜霧が残り、キー・ギャッ・ホポー と野性的な鳥の鳴き声が谷間にこだましている。アルプス山脈を越えて渡ってくる鳥をかすみ網で捕獲する仕掛けの猟は、南チロル地方やユーゴスラヴィアでとくに盛んだった。すでに、時代に合わなくなったロッコロ猟は20年ほど前に禁止されていた。鳥たちが羽を休めるためと、仕掛けた罠を隠すために植えられたシデの木の網場は30箇所ちかくあったがほぼ壊滅してしまっていた。何代ものあいだイィゴルは一族が命よりも大切にしていたロッコロをひとつだけ守ってきた。
ロッコロの周りに植えられた鳥の食べる赤い実のモチの木やがまずみの木、カシスやどんぐりなどの木を手入れし続けてきたのだ。
子供の頃はそこが二人の遊び場だった。ホ―ホ―と奇声をあげながら秘密基地を目指したし、二人だけの秘密の場所には色々な宝物を隠した。虫を捕まえては咲き誇った花々の上で、虫や花びらを木の葉にのせてレストランごっこもした。イィゴルはてれながらも静止した眼差しをたたえ、いつも違った香りの野の花束をくれた。雪の日はソリにのせてくれて引っ張り歩き、二人してソリから堕ちて笑いあいながら雪にころがり白くまみれた。
ビアンカは自分の心の裡は自分にも誰にもみえないと思っていたが、イィゴルはビアンカも知らない心のなかに入り込んでしまっていたのだろう。どんな遊びをしても、悪いいたずらを仕掛けてもビアンカの気にいらないことにはならなかったし、笑いで緩められた頬をそっと撫でてくれた。
夏の薄い余白が青空に寄り添っている日、ふたりはまるで自然に甘い匂いの干し草を平らに敷いた上で初めて体を重ねた。ビアンカの体が初めて男を迎えた瞬間だった。ビアンカは燃えあがるような自分の感情を隠しきれなくなってシデの樹の枝と枝のすき間からのぞく青い空を愛撫するかのように固く目を閉じた。うっとりするほど無垢な少女が体を震わせた。ビアンカが唯一自分で選択した美しい緊張感がみなぎった時間だった。
あの時より風が少しつめたくなった9月の終わりの雲は、青空の余白を分厚い雲で埋め尽くしてひろがり、ロッコロに黒い陰影を作っていた。
新しい出発をしなければと思いながら、トリエステを彷徨したあげく目的を失って浮遊し乱舞するばかりだった。考えないで生きてきた報いが死であることは当然の帰結だった。ビアンカの人生のうちでようやく自分で考えた答えだった。結局考えもなしに沼に浮かんだ落ち葉のように何処へも行けずに行かずに風に吹かれてまた戻って来てしまうたよりない生き方だった。
マザーテレサが世の中で一番罪深い人のことを、無関心な人と呼んだから、ビアンカは死んでも神に召されるはずもなかった。じわじわと気がつかない間に陥ってしまう無関心と言われる名の汚染地帯に感覚まで侵されてしまっていた。
ロッコロを取り巻く樹々の落ち葉がカサコソと消え入りそうな音が置き去りにされた時間を奏でていた。もう人生は取り戻せそうにない。ビアンカはただ静かに消えたいと願った。そしてビアンカは信じた。イィゴルは死者を冥府に導いてくれる使者ギリシャ神話のヘルメスと同じ役割をしてくれるだろうと。
無邪気ないたずらの計画を話すみたいに、ビアンカはイィゴルに何をして欲しいのかを明確に説明した。
ビアンカにはもう女王様然としてふるまう力はなかったのだが、イィゴルに対してはすんなりと命令調の言葉が出た。
「イィゴル!ここがいいわ。」
「なにが・・」
「イィゴル!私の死体はここに置いてね。」
「なに言っているの?」
「わたしが薬を飲んでロッコロの下に眠るの。」
「薬?なんの??・・ 」
「息が絶えた頃落ち葉をかけるだけだから・・・出来るでしょ。」
「死?」
「ちょっとだけ、隠すような感じでふわっと三回ぐらいかければいいわ。」
「ビアンカ!なにも死ななくても!
「一年に二回は落ち葉をかけてね。」
「ビアンカの言っていることが、わからないよ!」
「だから、わたしが、枯れ葉の上で死ぬのよ。」
「君はまだ若いし、これから ぼく と・・」
「無関心で、罪深い私の肉体は微生物や植物に捧げなければ。」
「人はみんな罪深いものだよ。」
「むかし、むかし東洋の国に、そういう埋葬法があったのよ。」
「埋葬?」
「ビアンカこと愛しているでしょ。ゆうとおりに、して!」
ビアンカはぼんやりと立ったままで虚が実になる感覚を持てない面持ちでいるイィゴルにたたみかけるように言った。
それから五年間イィゴルは平らたくなったビアンカの眠っている場所に落ち葉をかけ続けた。押しつぶさないように、ふわっと、ふわっと。
ある晴れた六年目の五月、ダルマッイァ海峡からの強烈なボーラが吹いて若葉がたくさん散った。枯れ葉よりもビアンカには若葉がとてもよく似合うような気がした。イィゴルは若葉を集め緑の布のドレスを着たビアンカを思い描きながら、ふわっと、枯れて色あせた落ち葉の上に敷き詰めた。
イィゴルはアクビをひとつしてビアンカのうえにやさしく重なり愛撫し、そのまま眠ってしまった。