カペラ。
あたしはカペラ。
何者でもないカペラ。
最初に物心がついた時、そこは薄暗い何もないただただ埃っぽいそんな場所、だった。
王国の隅っこの片田舎の村のそのまた隅っこのあばらやに住んで。
でも、そこには生きていくために必要なものは何一つ存在しなかった。
そう、本当だったらまだ子供だったあたしには親という存在が必要な状態だったのだろうと思われるのだけれどそんなごたいそうなものも近くにはいなかったのだ。
いつも煤けて真っ黒になっていたあたしは野良猫のように食べ物を探して街を彷徨い。
それこそ猫と張り合って人の残り物の食べ物を漁った。
あたしの髪は真っ黒で、肌も煤けてやっぱり真っ黒で。
ライバルだった黒猫はいつの間にか仲良しになった。
大きい人間は怖い。
すぐ怒鳴るし水をかけられることなんかしょっちゅうで、一度なんか熱いお湯をかけられて泣きながら逃げた。
夜は黒猫のクロコと抱き合って寝た。
でも。
いつだったか。
あたしは人の言葉を理解できるようになり。
自分が猫ではなく人間なのだと自覚したのだった。
あるとき。
大勢の人間に囲まれたあたし。
やっぱり体がどんどんと大きくなると流石に子供の時のようにはいかず素早く逃げ回ることもできなくて。
散々抵抗した挙句にあたしはそいつらに捕まって連れて行かれた。
奴隷? っていうのだそうだ。
身体中を擦られて水をかけられて煤けた垢が落ちた所で、あたしはセリにかけられた。
怖くて怖くてびくびくと震えていたあたしを買ったのは、長いお髭の魔法使いの爺さんだった。
最初はどんな目に遭わされるのか怖くって。まともにその爺さんの顔も見えず。
差し伸べられた手にもしゃーと威嚇で答えることしかできなかったのを覚えてる。
⭐︎⭐︎⭐︎
「おーいカペラや、ちょっとお茶を入れてくれんかね?」
「はいはい、エグザさま。ちょっとまってくださいよー」
あたしはお勝手の掃除の手を休め、ポットにお湯を沸かして。
初級魔法だけどお湯を沸かすくらいだったら簡単だ。ここにきて最初に覚えた火の魔法をチョチョイと使う。
急須に薬草茶をひとつかみ入れてそこにお湯を注いだら乾燥茶葉がふんわりと開くのをまって爺さんのお気に入りのカップに注いで。
ふふ。
お茶の香を嗅いでなんだかほんわかした気分になったあたし。
にゃーお
クロコがやっぱりお茶の香りに気がついたのか自分も何かもらえるんじゃないかと思ったのかな? すりすりとあたしの足に頭を擦りつけて甘えた声を出した。
まさかね。
自分がこんな穏やかな暮らしができるようになるとは思っていなかった。
あたしを連れて帰った日、爺さんは言った。
「お前は今日からカペラだ。名前? そうだよ名前がカペラだ。名前もなしじゃ、生きていくのも大変だからね」
そんなふうにいとも簡単に、あたしは名前というものを貰ったのだ。
それはあたしの中で、変え難い宝物となったのだった。
「はい、お待たせ」
「ああ、ありがとうな。カペラや」
爺さんはあたしが差し出したカップを受け取ると本を閉じてすっと啜って。
「うまいな」
そう笑顔で言った。
あたしも。
釣られてふふっと微笑んだ。
エグザ・ネイチャーというのがこの爺さんの名前。
この街ハズレの屋敷に籠って毎日毎日本と睨めっこしながら魔法の研究をしているんだけどあたしが来たときはこの人一人で暮らしていたらしい。
どうやらその前にもあたしみたいのがいた気配はあったんだけど、その辺は何も話してはくれなかった。
その人のお古? のお部屋と着物を与えられたあたしは、人の日常の基本を全て爺さんに教えてもらい。
こうして今はもっぱらおさんどんしながら時々魔法を教えてもらっている。
最初は怖くてどうしようもなかったあたしだけどこの爺さんは怖くないってそうわかってからは、随分とゆったりと過ごしている。
街に買い物にでたついでにもとのネグラによってクロコを連れてくることも許してもらえた。
今では彼女もすっかりとこの家の飼い猫になって寛いでいる。
幸せっていうのはこういうことをいうのかな。
あたしは本で学んだそんな言葉がこんな今の暮らしのことだって、そう感じていた。