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ミナ  作者: 嘉多野光
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二の三

 ところで、谷口課長は休みの間何をしているかというと、自分の部屋から持ち出した高性能そうなノートパソコンを広げてかたかたと何かを打ち込んでいることが多い。長いときは、午前中だけではなく昼ご飯を食べてから日が暮れても、ひたすらキーボードを叩いている。谷口課長は私に負けず劣らずキーボードの叩く音が激しいタイプなので、家の中にはキーボードの音が響き渡っている時間が長い。

 以前、気になった私は「課長、まさか休めって言われてるのに仕事してるわけじゃないですよね?」と訊いた。社畜を極めている課長なら十分有り得る話だったからだ。

「違うよ。だって本当に仕事してたら、ちょくちょくテレビ会議したりデザイン案を描いたりしてるはずでしょう?」

「確かに」

 谷口課長の言うとおりだった。もし前職の仕事をちゃっかり続けているのなら、プロジェクトマネージャーである以上、テレビ会議や電話などでの連絡業務が欠かせない。しかし現在の谷口課長はそういったことをしている様子はまったくない。今時珍しく、カウンターキッチンの隅には家電も敷かれているが、この電話が鳴るのは売り込み電話に出るときだけだ。それに、デザイン案を描くとなるとペンタブレットや紙、サインペンを頻繁に使うはずだが、その類いも使っていない。マウスさえほぼ使わず、キーボード操作に集中している。

 翌日の昼、私が宙を見つめながら新たなストーリーを考えていると、キーボードを一心不乱に叩いていた谷口課長が席を立った。課長は自室ではなくダイニングテーブルで作業をしていることが多かった。自室にいるのは寝るときだけだ。寝室では寝るときだけ過ごすのが、すぐ寝付くための秘訣らしい。

「あー、目がしんどい」

 課長は近くにあったティッシュペーパーで目頭や目尻を拭くと、そのまま洟をかんだ。

 谷口課長は花粉症だった。私もここ二年ほどになって春先になるとむず痒さをわずかに感じるようになった気がするが、まだ本格的に花粉を拒否するには至っていない。一方、課長は私が初めて家を訪れた一月の時点ですでに「今日は花粉を感じるんだよね」と言うほどの花粉症重傷者だった。今となっては市販の鼻炎薬では症状が収まらないらしく、医者から処方される強めの薬を服用している。先週も、薬をもらいに病院に行っていたところだ。通っている病院では、最大でも一ヶ月分しか薬を処方してくれないとこの間ぼやいていた。

「課長、鼻の下赤いですよ。洟かみすぎじゃないですか」

 谷口課長の肌はここ最近かなり荒れている。ティッシュの使いすぎもあるが、花粉で痒いのか顔のあちこちをぽりぽりと掻いていることが増えたのだ。会社にいた頃は、谷口課長は年が明けてから梅雨に入るまでの間ずっとマスクをしていたので、花粉症というだけでこれほど肌が荒れていたとは知らなかった。

「この時期はこういうもんだから、仕方ないんだよ」

 谷口課長はもう一度強く洟をかんだが、鼻が詰まっているようで籠もった音がした。

「ああ、もう無理。コンタクト外して目洗ってくる。もー、目ん玉取り出して洗いたい」

 「目ん玉洗いたい」は三月から四月にかけての谷口課長の口癖だ。

「行ってらっしゃい」

 谷口課長は席を立つとうーんと唸りながら洗面所に向かった。

 洗面所から水の流れる音が聞こえてきた。几帳面な谷口課長は、コンタクトレンズもしっかり片目三十回こすり洗いをして、さらにタンパク質除去の液体も入れるので、洗浄がテキトーな私に比べて倍以上の時間がかかる。

 さらに、洗浄液で目を洗うときは「一回じゃ洗った気がしない」と言って二、三回は目を洗った上でお湯で最後にもう一度洗うほど念入りだ。課長によれば、多めのメントール成分の入った洗浄液を使った後にお湯でさらに目を洗うと目が「整う」らしい。そんなことをしていれば、合わせて五分ほどはかかるだろう。

 花粉症というものは大変だなと同情しながら、私は席を立ってお茶をつぎ足そうとキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。ほぼ毎日私が作り置きしている麦茶を注ぎながら、ふと視線をカウンターの外に遣った。谷口課長が使っているパソコンから光が煌々と漏れていた。いつもは、いついかなるときであっても、谷口課長は席を立つときにはパソコンをスリープ状態にするから、パソコンで何をしているのか確認できない。よほど花粉症に気を取られたのか、今回はパソコンをスリープ状態にするのを忘れて席を立ったようだ。

 私は麦茶をなみなみ注いだコップをキッチンに置くと、半ば無意識的に谷口課長のパソコンに近寄った。全画面表示でテキストエディタが開いてかれていた。画面の上から下まで、文字でぎっしり埋まっている。特にマークアップやマークダウンされている様子もないので、つまらない報告書か何かかと思った。

 一見、文字が密に埋められているように思えた画面に目を凝らすと、一文字ぶら下げで文章が書き出されていることに気付いた。モニター中央辺りから始まる段落に目を通した。

「坂口は手に持った紙を丸めて握りしめると、教室を飛び出し廊下を駆け出した。途中、先生から後方で『坂口、廊下を走るな!』と呼び止められたが、坂口の耳には先生の声は届かなかった。坂口の頭の中には久保田のことしか頭になかった……」

 どうやら小説のようだ。そういえば同人誌を書いていたことがあったとかなかったとか、言っていたようないなかったような、気がするようなしないような。

 興味が湧いた私は、思わず身をかがめてファイル上部までスクロールし、つぶさに文章を読み始めた。

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