二の一
二
翌月、私は一人暮らししていた家を引き払って谷口課長の家に転がり込んだ。
引っ越し自体はあっけなく終わった。私の使っていた家電のどれもが谷口課長が使っているものより半値以下の安物で、何も持っていく必要がなかったからだった。
居候させていただくにあたってのもっぱらの懸念点は、趣味と実用を兼ねた漫画本や、自分の同人誌の在庫をどっさり持ち込まなければならないことだった。自炊して電子書籍化し、本は処分することも考えたが「むしろリビングがさみしいと思ってたから、私物大歓迎だよ」という谷口課長のお言葉に甘えて、ほとんど全部を課長の家に持ち込むこととなった。おかげでリビングの西側の一角が、突如としてちょっとした漫喫になった。
引っ越して、生活費削減以外のもう一つのメリットに気付いた。他人の目だ。
谷口課長は仕事を休んでいるというのに、平日も週末も祝祭日も関係なく毎日七時前後には起床し、十二時までに就寝している。規則正しく起きているのに、仕事を休んでからは目覚ましも掛けていないという。どうしてそんなに規則正しく起きられるのか聞いたが「ずっと同じ時間に起きて出勤してたから、その癖が抜けないんだよ」とのことだった。私だって学生生活を含めればそれなりに朝早く起きる生活を続けていたはずなのだが、目覚ましを掛けなかったら最後、半日寝てしまうというのに、私と谷口課長とではいったい何が違うというのか。
私が引っ越してくる前から谷口課長はリビングから離れた自室で寝ているが、朝起きるとすぐリビングにやって来て朝食の準備を始める。おかげさまで、課長の生活音や朝食のにおいで私も午前中に起きて活動を開始するという癖が身についた。
谷口課長は私の生活にあまり干渉してこない。朝だって、お腹が空いたから私が勝手に一緒のタイミングで起きているのであって、起きろと急かされているわけではない。お互いいい大人というのもあるが、谷口課長は「ご飯できたけど、食べる?」とか「テレビ見ていい?」くらいしか声を掛けてこない。よって、実は一緒に生活を始めても、あまり会話の数が増えた感じはしていない。もっと、化粧品や服や靴を互いに貸し借りするような女子二人のわいわいきゃっきゃした生活を想像していた私としては、それぞれの独立した生活に肩透かしを食らった気分だった。おい、私のどこにきゃっきゃする成分があるんだというのは言わない約束だ。
引っ越して二週間ほどが経ったある日、A4の用紙を折りたたんで本の形にしたものにネームを描き込んでいるときだった。下書きおよびペン入れは液晶タブレット上で行っているが、ネームだけは今も紙に描いている。ネームだけは本の形になっていないとイメージが湧かないのだ。
「うわっ」
ふと視線を上げると、窓に谷口課長の姿が反射しているのが視界に入った。小さな窓に向かう形で机を配置し、背中を丸めて作業していた私は、課長の姿に驚いて椅子をガタガタと鳴らした。
「ちょっと、そこまでにびっくりしなくても。そんなに音立てたら階下に響いちゃうでしょう」
「す、すみません。全然気配を感じなかったもので」
私は後ろを振り返って谷口課長の姿を目で捉えながら肩で息をした。
私は作業に没頭すると人の気配を察知できないときがある。例えば実家に住んでいたときは、長い髪を乾かすために視界がほとんど髪で見えないときに、家族が横からぬっと洗面所に現れると大声で叫んでしまうことがあった。私にとってはいつの間にか洗面所に忽然と人が現れたように感じられるのだ。今回の谷口課長もちょうどそんな感じで、いきなり横にテレポートされたような感覚だった。
「別に私、忍者の末裔でもないんだけど」
そんなことを言って笑いながら、しかし気付いたときには谷口課長は私の描いていたネームを左手に持ち「はあ、なるほど」などと言いながら読んでいた。
「ちょ、ちょっと!」
私が慌てて椅子から立ち上がって右手を伸ばしてネームを取り返そうとすると、谷口課長は最低限の動きだけで身を翻して私の腕を避けた。避けられた私は危うくこけそうになりながらすんでの所で姿勢を整え、左手を伸ばした。しかし、課長はネームしか見ていないはずなのに、腕をさっと上げてまたもや避けた。この人は本当に忍者の末裔なのではないだろうか。
「はい」私が息を整えていると、谷口課長は私にネームを手渡した。
「もう読んだんですか? 三十六ページくらいあったと思うんですけど」
「うん。だって、全体の半分くらいが二、三コマの台詞なしの戦闘シーンじゃん」
「ネームって知ってるんですね」
「私も実は小さい頃漫画家になりたいって思ったことがあってね、ほんの一瞬だったけど。でも画力が著しく低いってことに気付いて諦めた」
谷口課長の絵心のなさは会社内でも有名だった。正確に言えば、お客様に見せるためのリフォームイメージのスケッチは構図などが見事なのだが、アニメやマンガ二次元のキャラクターとなると、途端に顔のパーツの配置が福笑いのようにずれているクリーチャーのようなものを描き出した。デッサンなら最低限出来るらしいが、平面的なものを描くとなるとどうイメージをすれば良いのか分からなくなるらしい。私は逆に背景を描くのが苦手なので、実はいずれ谷口課長に背景専用のアシスタントになってもらおうかと考えているくらいだった。