一の六
「ええ?」
「まあ私の家1LDKだから、新井さん専用の部屋は用意できないんだけどさ。私はもう一つの部屋で寝てるから、新井さんはリビングの隅に寝てもらうことになるけど」と言って谷口課長は部屋の対角を指さした。ソファがあるが、全体的にゆとりのある部屋なので、少しずらせばシングルベッドと机くらい置けそうだ。
「いやでも、それはさすがに」
「飯島くんから聞いたよ。新井さん、マンガ描いてるんでしょ? 私も実は一時期ちょっと同人誌で小説書いたりしてたから、気になってて」
「へえ、意外ですね」会社での谷口課長のバリキャリからは、同人誌を書いている姿は想像できなかった。
「それで、私も応援したくなっちゃって。まあ暇だから、話し相手が欲しいってのが本当の理由だけどね」谷口課長が両手で持っていたマグカップをテーブルに静かに置いた。「今の家を残しておきたいってなら、そっちの家賃払っても良いし」
「それはダメです!」私は慌てて手を横に振った。「ちょっとの間部下だったってだけで、そこまでやっていただく義理もないですし」
「まあそう言わず、罪滅ぼしさせてよ」
「罪滅ぼし?」
谷口課長が、先ほど置いたばかりのコーヒーをもう一回手に取ってぐいっと飲み干した。
「だって、仕事や私が嫌で会社辞めたんでしょう?」
「え?」
「私の下で仕事するのが嫌になって辞めたんでしょう? マンガ家になるっていうのはこじつけというか」
「こじつけじゃないです!」私は思わず大声を上げた。「私、本気で漫画家になりたいんです!」
私の反応に呆気にとられたのか、谷口課長は目を何度か瞬かせて「あ、そうなんだ。ごめん」と言ってばつが悪そうに俯いた。
「私、小さい頃からマンガ家になるのが夢なんです。大学院に行ったのも、本当はマンガを描くためで。でも、学生の間にもデビューできなかたから一旦就職したんですけど、諦められなかったんでもう一回挑戦することにしたんです」
「そっかあ。よかった」
谷口課長は安心したのか、にっこりと笑って立ち上がり「コーヒーおかわり要る?」と聞いてきたので、お言葉に甘えることにした。
やかんを再度火に掛けながら「てっきり私のせいで新井さんを退職に追い込んだって思ってたから、そうじゃなかったようで安心したよ」と言った。
私は残っているカフェオレを飲みながら谷口課長の申し出について考えていた。実際お金はない。このまま無収入が続いた場合、どれだけ生活を切り詰めたところであと半年もすれば貯金が底をつく。本当はさらに二ヶ月くらいは無給でも生活できる予定だったのだが、再就職手当の支給審査がネットで見ていたものより私の自治体の場合かなり基準が厳しく、このままでは受け取るのは絶望的だった。
両手で頬を覆いながら虚空を見つめて考えていると、いつの間にか新しいコーヒーを持った谷口課長がテーブルに着席した。
「あ、すみません、手伝わなくて」
「そんなに考えてるってことは、相当キツいんだね」谷口課長はふふっと意地悪そうに微笑んだ。意地悪そうに見えたのは私のフィルターのせいかもしれないが。
私は淹れてもらった二杯目のカフェオレを一気飲みすると「課長! お願いします!」と言って席を立ち、谷口課長の足下で土下座した。
「ちょっとやめてよ」谷口課長は珍しくガタガタと音を立てて席を立ち、私の背中に手を置いた。恐らく焦ったのだと思われる。
「私が言い出したことなんだしさ、顔上げてよ」
「ありがとうございます」
私がわずかに顔だけ上げると、苦笑した谷口課長が視界に入った。私が仕事で無理なお願いを言ったときに見せた顔と同じだった。
西向きの窓からレースカーテンを通して、ほのかに暖かい太陽光が差し込んでいた。