一の五
昨年末、久々に通帳記入すると、貯金残高が退職時の半分以下にまで減っていたことに驚愕した。よくよく確認すると、国民保険や国民年金で想定よりも数倍早いペースで減っていた。一瞬、臓器の一つでも売ろうかという考えが脳内を横切ったが、わずかに残った理性で私は立ち止まって家に帰った。
そこからは猛烈な節約生活が始まった。外食は一切なし。朝は卵かけご飯。夜は白米のほかに、キャベツに塩昆布とごま油をかけた「無限キャベツ」か、キャベツの味噌汁。白菜でも可。洋服も化粧品も買わない。美容院は三ヶ月に一回ばっさりカットして節約、前髪はセルフ。本は古本で定価の半分以下のものを買うか、図書館を使い倒す。映画やドラマはサブスクリプションで見る。公共交通機関の利用は極力控え、片道一時間なら歩く。
そういう極貧状況の中で、谷口課長へのお土産にお金を使うことを渋った私は、なるべくお金を浮かせるためにレアチーズケーキを自分で作ることにしたのだ。本当はできるだけ手作りだと気付かれたくなかったのでベイクドチーズケーキを作りたかったのだが、オーブンレンジを持っていないため断念した。
しかし、谷口課長は私のお手製の手作りチーズケーキだと分かっても黙々とチーズケーキを食べ、あっという間に完食した。
「ごちそうさまでした」
手のひらを合わせて丁寧に挨拶をすると、右手で頬杖をつきながら課長はこちらをちらちらと眺めた。
「食べないなら、私食べちゃおうかな」
「そんなに言うなら、どうぞ」
私は自分が三口くらい食べたチーズケーキを谷口課長に差し出した。味見は昨夜すでにしていたから、食べられないほどではないことは分かっていたが、市販のクリームチーズとギリシャヨーグルトを混ぜて冷やしただけではお店の味には到底及ばない。
「ありがと」谷口課長は皿ごと受け取ると、パクパクとチーズケーキを口に入れた。
「そんなに美味しくないでしょう」
「部下の手作りだよ、美味しいに決まってるじゃん」
「そういうことなら嬉しくないですよ」
このくらいの憎まれ口なら谷口課長は機嫌を悪くしないことを私は知っている。馬場さんみたいな、やること成すことすべてが周りの人をイラつかせる人が同じことを言ったらどうなるかは知らないが。
私は谷口課長が淹れてくださったカフェオレを口に含んだ。インスタントではないコーヒーの芳しい香りと、水のような牛乳もどきの無脂肪乳ではない、ヘルシーな乳脂肪分を感じる。気付かない間に自分の食生活は驚くほど貧しくなっていたのだなと痛感した。
「新井さん」谷口課長が最後の一口を食べた。「ぶっちゃけ、生活苦しい?」
私は思わずカフェオレを吹き出しそうになった。少し咽せてから「え?」と聞き返した。
「だって、新井さんの髪がこんなにプリンになってるの見たことないし。それに、鞄にもところどころ染みが付いてる。前だったらこんなもの絶対使わなかったでしょう」
谷口課長の観察眼は敏腕刑事並みに誤魔化せないようだ。
髪は、ここ二年ほど明るすぎないブラウンに染めるのが習慣化していたが、今となっては頻繁に染める余裕などない。ちょうど最後に染めてから三ヶ月ほど経っているが、こんなに期間が空いたことはなかった。ここまで空くと新しく生えた部分が黒々と目立つのでよく分かってしまうのだが、生活に支障を来すものではないのでここまで放っておいていたのだ。
長年使っているナイロンの鞄も、正直みすぼらしいので買い換えたいのだが、金具や取っ手の部分がダメになったわけではないので、鞄として機能するうちは使い続けるつもりだった。
「よく見ていますね」
顔を見られたくないので、マグカップで口元を覆いながら返事をした。
「まあね」
谷口課長はブラックコーヒーを一口飲んだ。課長は仕事場でもブラックコーヒー一択だった。あんなに苦いものをよくもまあ直で飲めるものだ。私もかつてはブラックコーヒーを飲めるものこそ真の大人だと思い込んで、ブラックコーヒーを飲む訓練をしていたこともあったが、今はもうそんな馬鹿な真似はしていない。カフェオレ様様だ。
「あのさ、よかったら、私の家で暮らさない?」
谷口課長が私に思わぬ提案をしてきた。