五の五
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翌朝、ビルの前で新井さんに「退職届、ありますよね?」と訊かれた。
「ばっちり」私は鞄からちらっと退職届を出した。「ちゃんと二枚書いたよ」
昨日提出した退職届は目の前で高崎部長に破られたので、昨夜に再度書いていたところ、新井さんに「予備でもう一部用意しておいた方が良いです」と言われた。
「何で?」
「あのお局はまたそういうことを平気でやりますよ」
「新井さんっていう第三者がいる前でもやるかなあ?」
「何言ってるんですか、あの人が他人の目なんか気にしたことがありますか? 少しでも気にするようなら、あんなパワハラばあさんになんてなってませんよ」
要らないと思うけどなあ、と思いながら私はもう一部同じ内容の退職届を用意したのだった。
新井さんは私の鞄に入っている二通の退職届を確認すると、右手の親指を立てて「準備万端ですね」と言った。「さあ、乗り込みますよ」
新井さんは正面から堂々と会社の一階に乗り込むと「頼もー!」と大声を上げた。ドアから見えるところで一組商談をしていたらしく、お客さんと従業員も一緒にびっくりしてこちらを振り向いた。
「ちょっと、新井さん」
さすがの私も、新井さんがこんなことをするとは思わず赤面した。これが出来て、電話は緊張する理由が分からない。
「いいんです、散々目立ってこちらがペースを握らないと、お局にやられますよ」
溜息を吐くと後ろから飯島くんと馬場くんが現れた。二人とも少し息が荒い。
「谷口課長、またいらしたんですか? あれ、新井さんじゃないですか。お久しぶりです」
「久しぶり、飯島くん」大統領か何かのように右手を挙げて新井さんは挨拶した。「馬場さんも、お久しぶりです」
「久々だねえ、どうしたの。ていうか、さっき大声上げたのも新井さんだよね? 勘弁してよ」
「すみませんね、絶対に負けられない戦いなもんで」
馬場くんは何のことかさっぱり分からないようで肩をすくめた。しかし、飯島くんはなぜか察したようで「谷口課長、決断されたんですね。残念ですが、ご武運を」と呟いた。
「ありがとう」私は飯島くんと馬場くんとそれぞれ握手を交わした。飯島くんは少し目が潤んでいたが、馬場くんは握手しながらも「何で? え、何?」と首をかしげていた。新井さんも流れで尊大に二人と再会の握手をすると、階段を上がった。
二階に上がるなり、早々に新井さんが「高崎部長はいらっしゃいますかー!」とフロア中に響く大きな声を上げた。するとデザイン部の奥で千川部長と話をしていた高崎部長が「何よ、何よ」と言いながら出てきた。
高崎部長が新井さんの顔を見ながら「アンタ、久しぶりじゃない。谷口まで連れて、何の用よ」と言った。
「アンタじゃなくて新井です。辞めて半年も経てば、元社員の名前なんか忘れてしまうんですね。まあ、構いませんが」
横目で新井さんの顔を見ると、今まで見たことがないくらいに目が血走っていた。これが新井さんの戦闘態勢なのか。私は初めて見る新井さんの殺気立った様子に、味方ながら身震いした。仕事もこのくらいの気迫をもって取り組んだら、かなり違うと思うのだが。
「今日は谷口課長の退職について参りました」
「ああ、谷口はウチで続けることになったから、アンタたちと話すことはないわ」
そんなこと言っていません、と私が言う前に「違う!」と新井さんが怒鳴り気味に返した。あまりの剣幕に、さすがの高崎部長も押し黙ってしまった。
その瞬間を見逃さずに新井さんは続けた。
「谷口課長はやりたいことを見つけたので本日付で御社を退職いたします。長い間、課長がお世話になりました」
「何よそれ、無茶苦茶よ」
「退職届です」新井さんが握ってくれた主導権を離してはならないと、私はすかさず退職届を一部鞄から取り出して、高崎部長に押しつけるように渡した。
「またこれ? アンタもしつこいわね」
高崎部長は退職届を受け取ると、昨日やったようにビリビリと破り捨てた。さすがにこの光景には、他の社員も呆気にとられて目を丸くしていた。少し遠くで見守っている社員はひそひそと話している。
「そう来るだろうと思いまして」
私は次の退職届を出した。昨日、新井さんのアドバイスを無下にせずちゃんと二部用意しておいてよかった。考えてみれば、高崎部長はこういう非道なことを人目を気にせず平気でやりかねない人だった。
恐らく退職届を目の前で破るというのは高崎部長の必殺技だったのだろうか、私が二通目の退職届を鞄から出すと、高崎部長の顔が明らかに引き攣った。よし、効いている。
「高崎部長、失礼ながら、今の様子を録音させていただいております」
新井さんが胸ポケットからボイスレコーダーを取り出した。私もそれは聞いていなかった。そこまで用意していたのか。だから退職届を二部用意させて、一部はまた目の前で破らせたのか。新井さんは私が思っているより策士な面もあるようだ。
「二枚目の退職届も破られたら、この録音を持って私たちはこれから労働省に直接足を運びます。それが嫌なら、この退職届を受理して、粛々と谷口課長の退職手続きを進めてください。さあ、どうされますか」
高崎部長は耳や首まで顔を赤くして、声にならない声を出した後「覚えてなさいよ!」と一言だけ返すと、谷口課長から退職届の封筒をふんだくり、自席に戻った。
「受理してもらえた」私は小さな声で呟いた。「本当にできた」
「さあ、谷口さんはもう自由の身です」新井さんが私の肩に手を置いた。「さあ、早くこんなところから出ましょう」
私は、肩を震わせたり髪を掻きむしっている高崎部長を確認した後、自席に戻った千川部長の方を見た。千川部長が横目でこちらを見ていて、目が合った。私が軽く会釈すると、他の社員に見えないようにウインクをした後、早く帰りなさいと言うように手をしっしと外に振った。本当は千川部長に最後の挨拶をしたかったが、高崎部長の怒りのボルテージが振り切ってしまっている今、これ以上会社に残っていては何が起きるか分からない。千川部長の計らいにしたがって、新井さんに「うん、帰ろう」と応えた。
私と新井さんはスキップするように会社を後にした。




