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ミナ  作者: 嘉多野光
31/33

五の四

 会議室内に静寂が訪れると、向かいから「すまん」と千川部長の声がした。

「また守ってやれなかった」

「大丈夫ですよ。退職するって決めた時点から、こうなることは分かってましたから」私は努めて明るく振る舞った。そうでもしないと涙が溢れてしまいそうだった。

「この後、どうするんだ?」

「今日は高崎部長の怒りが収まらないでしょうから、いったん引き下がります。また改めて来ます」

「分かった。苦労をかけるな。高崎部長には俺からも言っておくから、今日は帰りなさい」と言って、心配そうな顔をしながら千川部長も会議室を後にした。

 一人残された会議室で、仕方がないので退職届の紙片を集め始めた。次第に、顔がかーっと熱くなって視界がぼやけてきた。怒りと悲しみで嗚咽しながら紙片を集めて手のひらでぐしゃぐしゃにまとめると、隅に置いてあったゴミ箱に投げた。塊はゴミ箱から外れて、また少し紙片が散らばってしまった。だが、ムカついたのでそのまま会社を出た。きっと、代わりに総務の加藤さんが片付けることになるのだろう。


 家に戻ると、新井さんが机に向かってがりがりマンガを描いていた。先週持ち込んだマンガを鋭意修正しているところだ。確か締め切りまであと二日のはずだ。

「お帰りなさい」新井さんが振り返るなり私の顔を見てぎょっとした。「どうしたんですか、その顔」

「え?」

「目、どろどろですよ」谷口さんが私の元に駆け寄った。

 近くにあった手鏡を手に取って自分の顔を確認した。アイシャドウとアイラインが涙でよれて、目の下を中心に黒くなっていた。隈と相まってパンダにしか見えない。

「とりあえずこれでさっぱりしてください」

 新井さんがリキッドクレンジングをたっぷりと含ませたコットンを用意してくれた。それで両目を拭き取ると、純白だったコットンが真っ黒になった。

「あー、久々に濃いめの化粧したからかな、よれちゃったね」

 最近は、部屋とトレーニングルームを往復する毎日だから、ほとんど化粧もしなくなっていた。フルメイクをしたのは数か月ぶりのことだった。正社員として働いていたときは、強く若々しく、且つあまりケバく見えないように日夜研究していたというのに、あの熱意はどこかに消え失せた。どうやら化粧をしなければならないという意識だけで頑張っていたのであって、本心ではあまり興味はなかったらしい。

「違うでしょう」口をへの字にした新井さんがしゃがみ込んで私の顔をのぞき込んでいた。「どうせ高崎部長に何か言われたんですよね」

「まあ、それは想定内のことだから」

「何て言われたんですか」

「無能だとか何とか」

「何ぃ!?」新井さんは窓の方を向くと大袈裟にちっと舌打ちをした。「他には?」

「どこ行ったって使えない、だからウチで働けとか何とか」

「あいつぅー」新井さんは怒りが収まらないのか、腕を組んでリビングを歩き始めた。

「谷口さん、それ典型的なモラハラですよ。相手を散々否定して、自分の環境に囲い込むんです」

「でも私、確かにマンガの原作や商業小説を書くなんて、向いてないかも」

「そんなことない!」新井さんが私の両肩をぐっと強く掴んだ。「辺見さんに評価いただいたじゃないですか」

 あまりの熱弁なうえに顔が近いので、新井さんの唾が私にかかった。辛うじて顔面で受け止めずに髪にかかった。新井さんは気付いていないようだった。

「それに、谷口さんを暴力で縛るような人より、部下だった私を見てくださいよ。私、谷口さんが課長で直属の上司だったおかげで、数え切れないほど助かりました。谷口さんの部下で良かったって思ってます」

「でも、仕事押しつけて残業させたり、迷惑かけたりしたでしょう」

「うぅー、もう!」新井さんが子どものように地団駄を踏んだ。「何で分かってくれないんですか!」

「そんなに足踏みしたら階下の人に響いちゃうからやめて」

「そんなことより」新井さんが今度は私の両頬をがっちり掴んだ。頬がむにむにと変形した。「とりあえず今日は一回寝て冷静になってもらいます。で、明日、もう一回乗り込みましょう。私も一緒に行きますから」

「え? 乗り込む? じゃあ電話しておかなきゃ」

 私は鞄に手を伸ばしてスマートフォンを探そうとしたが、新井さんが鞄ごと取り上げてしまった。

「新井さん、何するの」

「谷口さんにそんな失礼極まりないこと言う奴に、いちいちアポとってやる義理なんてありません!」

「そんな、社会人の常識だよ」

「長年会社に貢献してきた谷口さんの心を踏みにじるような行為の方が、よっぽどマナー違反です!」新井さんは鞄を放り出して私を抱きしめた。「つらかったですね。今日は私が夕食作るんでゆっくりしてください。心まで温まるようにホワイトシチューにしますね」

「二分の一本の人参まるごとは、もうやめてね」私は新井さんの背中に手を回して背中を叩いた。

「あれは手違いですよ」新井さんの腕の力が強くなった。あばらが締め付けられて、少し痛かった。「今度は上手くやってみせますから」

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