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ミナ  作者: 嘉多野光
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五の三

 高崎部長がにこにこと機嫌よさそうにこちらに笑顔を向けた。あくまでも自分の口から職場復帰しろとは明言しないのだな。

「単刀直入に言います。退職させてください」

「はい?」

 高崎部長が、つけまつげをつけた大きな目を瞬かせた。千川部長は「ううむ」と重苦しそうな声を出して目を瞑っている。私も谷口の退職意思を聞くのは初耳ですという演技なのか、これから高崎部長が荒れるのを受け入れる準備をしているのか、見分けがつかない。

「退職届も書いてきました」

 私は、鞄から震える手で書いた退職届を出した。最初は退職願にしようと思っていたのだが、中途で入社して、すでに退社して建築家として独立した佐竹さんに「意思を示すためにも、退職届にした方が良い。退職願じゃ法的拘束力がないから、高崎部長のいいようにされちゃうよ」と言われたので、意を決して退職届を書いたのだった。

「ちょっと、冗談でしょ」高崎部長は汚いものを触るかのように退職届を親指と人差し指でつまんで、無意味に封筒の裏側を見たりした。「どうして?」

「やりたいことを見つけました」

「独立は許さないわよ」

 憲法で職業の自由が保障されている以上、社員の独立を止める権限はないだろう。

「競合になるようなことではありませんので、ご心配なく」

「じゃあ一体何するって言うのよ」

「小説を書きます」

「小説う!?」高崎部長がオーバーに後ろに仰け反った。「何かと思えば、まあ」

「もうデビューも決まったんです」

「アンタ、ウチで仕事をしてる間から別のところで仕事してたの? ウチ、副業禁止なの分かってるよね?」

「はい、だからここで働いている間は活動していません」

 高崎部長は数秒間私の目を見据えた後、どうやら私がウソを言っていないと分かったようで、横目で睨みながら「ふうん」と言った。

「でも、それで食べていける確証なんてないじゃない」

「はい、分かってます。でも挑戦したいんです」

 遂に始まった。己を守るために拳を握りしめた。長い爪が自分の手のひらに食い込んだ。千川部長も長年の経験から口を一文字に結んで一言も口にしようとはしない。これは苦行なのだ。

「それで仮に失敗したとしても、アンタもう四十過ぎてるでしょう。再就職厳しいわよ」

「分かってます」

「それに男もいないんでしょ」

 完全にそれセクハラだぞと思いながら、私は「ええ」と正直に答えた。別に付き合っている人がいないことに、自分自身で引け目を感じたことはない。私は小さい頃から、自分の作る世界があれば十分だった。

「今まで真っ正面からちゃんと評価されたことないんだろうから私がはっきり言ってやるけどさ、アンタって使えないのよ」

 高崎部長の言葉がグサッと心に刺さった。分かっている、この言葉で傷ついていては高崎部長の手の内だ。耐えろ。私は黙って目線だけ返した。

 こんな奴と無駄に話してやるために呼吸するのが勿体ない。早いところ帰りたい。

 視線を少し上げると千川部長と目が合った。励ましの光線を目から送っていた。

「入社したときのアンタなんか、びっくりするくらい使えなくてびっくりしたわ。そのくせ『納得できません』とか言って、私に楯突いて」

 これは事実だった。新人なんて最初から使える人など存在しない。私だって新人の頃は他の人と同じように使えないところからスタートした。それを、当時はまだ先輩に過ぎなかった千川部長に手取り足取り教えてもらってここまで来たのだ。

 私は自分の中で納得できないと仕事を進められないタイプだったので、あれこれ説明されてもよく「分かりません」と言って千川部長を困らせた。やがて私のやり方を理解してくださった千川部長は、ときには私に一、二時間も割いて懇切丁寧に指導してくれた。入社して丸一年経つと業務の進み方が何となく把握できるようになり、だんだんと仕事を進めるのが早くなっていった。

 千川部長に、昔のお前は使えなかったと言われるのなら理解できる。しかし、高崎部長に言われるのは納得できなかった。総務部とデザイン部が交わることは、昔も今もほとんどなかい。

「でも、何とか最低限業務をこなせるところまで私たちがアンタを育ててやったのよ。そしたら育て終わったらアンタ、辞めますだなんて、そんなの虫が良すぎるじゃない」

「ここまで育てていただいたことは感謝しております」

「だったらウチで骨埋めるつもりで頑張りなさいよ」

「すみません」

 ここで、論理的に説明したり論破したりしようと思っても無駄だ。あれこれ言えば言うほど怒りの炎を大きくするだけだ。こういうときは、とりあえず謝るに限る。とりあえず謝るというのも、新人のときは意味不明だと思っていたが、今ならとりあえず誤っていれば落ち着く人種が存在しているということも理解できる。十五年以上働き続けて学んできた処世術だ。

「私優しいから言ってあげるけど、アンタみたいな奴、他のところじゃ雇ってくれないよ。それに小説家デビューもするとか言ってたけど、担当の編集者っていうの? も、すぐにアンタのこと見放すわよ」

「すみません」

「あのさあ、すみませんすみませんって、アンタなんかもうちょっとまともな言葉ってのが言えないわけ?」高崎部長が机をバンバンと叩いた。

「勘弁してください」

「勘弁して欲しいのはこっちの方よ!」

 ついに高崎部長は会議室の外にも聞こえるほどの大声を上げた。ここまで来ると怒りのピークに達したと言うことだ。

「アンタ、悪いこと言わないから、ウチに戻ってらっしゃい。今ならこの話も聞かなかったことにして、これも見なかったことにする」高崎部長は退職届をつまみ上げた。

「いいえ、それを受け取っていただかないと困ります」

「アンタって本当に頑固ね! そういう人嫌い!」

 高崎部長は退職届をテーブルの上に叩きつけた後、無理矢理に退職届を封筒ごと引きちぎった。封筒ごととなると結構な力を要するのではないかと思ったが、高崎部長はいとも簡単に手の力だけで破いてしまった。さすがモンスターだ。

 破られた退職届の残骸を呆然と見つめていると「もうアンタと話すことはない! さっさと帰れ!」と吐き捨て、大きな足音を立てながら高崎部長が会議室を出て行った。

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