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ミナ  作者: 嘉多野光
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一の三

 一週間後、私は渋谷駅から徒歩十分ほどにある十数階建てのマンションの入口にいた。この六階に谷口課長は住んでいる。

 決してタワーマンションというほど高い建物ではないが、洗濯物が沿道側のベランダに干されていないところを見ると、いかにも金持ちが住んでいるという匂いがプンプンする。そもそも、課長の居住地を知るまで、北海道の奥地出身の私は渋谷駅から徒歩十分の場所に人が住めるとは思ってもみなかった。

 オートロックのインターホンで谷口課長が住む六一〇号室に対して呼び出しボタンを押すと、スピーカーから一つ咳払いの後に「どうぞ」という声が流れ、ロックが解除された。

 エントランスは吹き抜けになっていて、シャンデリアが飾られている。その下にはちょっとしたソファと、部屋の隅には門松が置かれていた。この吹き抜けの様子だと、もしかしたら二階は存在しないのかもしれない。貧乏人には考えつかないほどの贅沢な造りだ。

 エントランスの奥にある二つのエレベーターのうち、ちょうど一階で止まっている方に乗った。エレベーターを降りると、ホテルのように部屋番号が書かれたプレートが眼前にあった。右側が六〇六号室から六一〇号室らしい。ということは、課長は角部屋なのか。一体、あの零細企業でどれだけ稼いでいるのだろう。私には退職金を一切出してくれなかったというのに。

 突き当たりまで歩いて、六一〇号室であることを三度確認してからインターホンを押した。インターホンでの応答はなかったが、代わりにすぐにドアが開いた。

「いらっしゃい」

 ドアから姿を見せた谷口課長は、職場でいつも着ているグレーか紺のスーツにピンヒールのバリキャリではなく、パステルピンクのふわふわした素材のワンピースに、白地に薄いピンクと茶色のタータンチェック柄の大判マフラーを肩に掛けていた。足下はパステルブルーのレッグウォーマーに、キティちゃんのスリッパを履いている。いつも主張の激しかった真っ赤なネイルは、今はあまりネイルサロンに行けていないのかトップコートを塗っているだけのようだ。それでも爪の形がきれいだから様になる。すぐにでもハンドモデルになれそうだ。

 谷口課長の初めて見るファンシーな姿に呆気にとられていると「このどっちかのスリッパ、よかったら履いて」と課長に薦められた。一つはマイメロ、もう一つはクロミちゃんだった。

「お久しぶりです。お邪魔します」

 私はクロミちゃんのスリッパを履いて玄関を上がった。謎の強迫観念によりキャラものの雑貨を避けて生きてきた私は、スリッパのかわいさに少し胸が躍った。

「飲み物淹れるね。何にする? 紅茶と緑茶、コーヒーがあるけど」

「お構いなく。調子よくないんですから、ゆっくりしてください」

「いざ仕事するなって言われてもね、卒業してからずっとあそこで働いてたから落ち着かないんだよ。大丈夫、大丈夫」

 そう言われれば、玄関で姿を見たときにはそのゆめかわいい格好に言葉を失ってしまったが、谷口課長は思いのほか元気そうだった。課長が在宅勤務していたときにはよく分からなかった顔色も、今見る限り特に問題なさそうだ。化粧で誤魔化している感じではなく、頬にも唇にもちゃんと血が通っている。私はひとまず安心した。

 健やかそうな谷口課長がマグカップを両手に持って、カウンターキッチンから首をかしげてこちらを覗いた。マグカップはキャラクターものではなかったが、やはりパステルピンクだった。どうやら飲み物を頼まないと先に進めないらしい。

「じゃあ、コーヒーで」

「分かった。ミルクと砂糖は……新井さんは入れるよね」

「何で分かったんですか」

「だって、職場でカフェオレ以外飲んでるところ見たことなかったから」谷口課長が牛乳を冷蔵庫から出した。「これでも私、新井さんの直属の上司だったんだよ。それに、このくらい洞察力がなきゃ、あの会社では生き残れないからね」

「なるほど、課長にまで昇進された理由が分かりました」私はキッチンの方に寄って、手に持っていた紙袋をカウンターの上に置いた。「あの、これつまらないものですが」

「やだ、お土産なんていいのに」課長は水をレトロなやかんに入れて火に掛けると、袋を確認した。「うそ、これバスクチーズケーキが有名なお店だよね」

「ご存じでしたか。まあ、私が食べたかっただけなんですけど」

「偶然。私もチーズケーキ食べたいなって思ってたんだよね。やっぱり私たち、何だか近いんだと思う」

 谷口課長は嬉々とした表情を浮かべて、袋の中から丁寧にケーキの入った箱を取りだした。まるで、クリスマスの朝にプレゼントを枕元で発見した小学生のようだった。この人もこんな顔をするのだな。子どもが欲しかったおもちゃを経済的事情によって用意できなかった貧乏家族の親のような、ほんのわずかな罪悪感を覚えた。

「課長は占いとか信じる方ですか?」

「まあまあかな。都合のいいことは信じるタイプ」

「私もです。私、ケーキ取り分けますね」

 課長がコーヒーを、私がケーキを用意し、キッチンカウンターの目の前にあるダイニングテーブルに置いた。オーク材でできた明るい色味の、二人用の小さくてかわいいテーブルだ。ゆめかわいい小物たちともマッチしている。

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