四の一
翌日、朝一番の新幹線で私たちは帰ることにした。昨日谷口さんが、お母様が部屋を去られた後にそう言ったのだ。
「そんなに急がなくても。せっかくですし、もう少し旅行しましょうよ。ご実家にいるのが気が進まないなら、別の宿にしてもいいですし。あ、有馬温泉とかどうです?」
「あのね、有馬温泉は大阪側にあって、兵庫を縦断しないといけなくて、すごく遠いんだよ。そこまで移動する時間があるなら、早くマンガを出版社に持ち込もうよ」
「え?」
兵庫県の土地勘が北海道出身東京在住の私には毛ほどもないことはさて置き、そう言えばマンガ盗作(?)問題が片付いていなかったことを、このときようやく私は思い出した。盗んだ側なのに。
「そうだ、私あのマンガを読みたいと思ってたんだった。見せて見せて」
谷口さんは、どうやら私が谷口さんの小説を元にマンガを描いたことを許してくれたらしい。まあ、許してない相手と一緒にご飯食べて寝るなんてこと、普通しないか。
私はパソコンを取り出して立ち上げると、例のマンガを恐る恐る谷口さんに見せた。パソコンは旅行で起きたことをまたこりもせずにエッセイマンガにしてSNSにアップするために持ってきたもだったが、例の如く一ページも描いていない。
谷口さんは一瞬でマンガを読み終えると「いいね、あー早くこのマンガを世に広めたい」と半ば独り言のように口にした。
「読むの速すぎません?」
「だって何回もネーム読んだからね」
谷口さんは自分のボストンバッグから少し皺の寄った私のネームを取り出した。パソコンやペンタブレットといった最低限のものはバックパックに詰めていたが、ネームは家に置いてきていたのだっけ。
「このネーム読んで、このマンガめちゃくちゃ面白いじゃんって思ったんだよね。小説で描ききってないところまでちゃんと新井さんの想像で補われて描かれてるから、感動したよ」
昨日私が家を後にしてからここで再会するまでの間に、谷口さんに一体どんな心境の変化があったのかかなり気になったが、職場で一度も見たことのないような屈託のない笑顔を見せられると、どうでも良くなってしまった。とりあえず「ありがとうございます」とだけ返しておいた。
新幹線の中で遅めの朝食(お義母様が作ってくださったおにぎり)を食べていると、谷口さんに「そう言えば、どうして昨日あんなこと言ったの?」と訊かれた。
「あんなこと? すみません、昨日色んなことがありすぎたから、何のことだか」
「ほら、私の母親に『海波さんは私が幸せにします』って言ったでしょう」
「ああー……」
あれは特に何の考えもなく咄嗟に出た言葉だった。まだ谷口さんからの情報量も少ないあのときに私に分かっていたことと言えば、谷口さんのご実家は小さい旅館を経営されていること、女将であるお義母様が一人で切り盛りされていること、お義母様と谷口さんの仲が悪いこと、原因は谷口さんが旅館を継ぐ気がないらしいことくらいだった。
ここ一ヶ月強一緒に暮らしているなかで、谷口さんがかなり快復されていることは分かっていた。しかし、ご実家を目の前にして、お母様の姿を見かけたときや話しているときの谷口さんの苦虫を噛み潰したような顔は、職場でもついぞ見たことがなかった。きっとあまり親と一緒にいるのが嫌なのだろう。私は両親共に円満にやっている方だと思うが、世の中には親と上手くいっていない人も多い。谷口さんの幸せは何か分からないが、お義母様との間には残念ながらなさそうなことは分かる。それなら私が幸せを一緒に見つけるしかない……というようなことを一瞬で考えたのだろうが、そんなことを今更事細かく説明する気にもなれなかった。そもそも今まで瞬発力で生きてきた私は、いつだってそんなに深く考えていない。
「そんなに深い意味はないですけど、谷口さんはあそこから離れた方が良い、東京に戻った方が良いって思ったんですよね」
「ふーん、勘がいいんだね」と言って満足げに谷口さんはおにぎりを頬張った。何だかんだ言って、今朝も家を出る前にお義母様に「おにぎりは鮭と梅がいい」と注文するくらいには仲が良いみたいだから、そう遠くないうちにお義母様とも和解できると思うが。
「勘がいいなんて言われたことないですけど。どちらかというと悪い方だと思いますし」
「へえ」と興味なさそうに返答した谷口さんが、スマホを見せてきた。「ところで、どこの出版社にマンガ持ち込む?」
見せられた画面は「マンガ 持ち込み」の検索結果だった。上位には有名な出版社名がいくつか表示されている。
「え? いや、持ち込みじゃなくて月間賞に送ろうと思ってたんですけど」
「そんな受け身じゃダメだよ、持ち込んで一緒に評価を聞きに行こうよ」
「怖いですって」私はシャンプーした後のゴールデンレトリバーくらい顔を振って抵抗姿勢を見せた。
「大丈夫、もしストーリーがダメって言われたらそれは私の責任なんだし。新井さんが負う責務は主に絵だよ。それに、一人だったら怖いけど、二人だったら大丈夫な気がしない?」
通路側に座る谷口さんが首をかしげてこちらを見てきた。確かに一人だけで作った作品を酷評されるのはつらいが、今回のマンガは自分で一から作っていない。それに、一緒に批評を聞いてくれる人がいるなら少し気が楽になりそうだ。
「まあ、それもそうかもしれませんね」私は他人に流されやすい性格だった。深く考えずに流されて生きてきた人生だった。
「よし、じゃあこの中から決めて早く連絡しないと。もう少しで名古屋着いちゃう」
「え、早いですって」私は左手で谷口さんのスマートフォンを借りると、慌ててブラウザの検索結果をスクロールした。




