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ミナ  作者: 嘉多野光
22/33

三の十

 二人で楽しく夜食を食べていると、襖を叩く音がした。私たちのいる襖を叩く人はこの旅館に一人しかいない。私たちの団欒を邪魔する鬼のいる方向を私が黙って睨んでいると、代わりに新井さんが「はあい」と返事をした。

「新井様、おくつろぎ中のところ、すみません」

 母が、襖を音を立てずに開けた。新井さんを名指ししたあたり、あくまで私には失礼したとは思っていないという意図がびしびしと伝わってくる。

「二階に上がっていらっしゃったの、全然気がつきませんでした」

 新井さんが母の方に居直って軽く会釈した。そりゃ女将がどたばたと足音を立てては話にならないからね、とは口が裂けても言えないが。

「いえいえ。娘の食事、お口に合いましたでしょうか」

「それはもう、いつも美味しいですけど、今日のはとびきり美味しいですよ。素材がいいんでしょうね」

「それは良かった。ところで」母の目つきが鋭いものに変わった。「今日水曜日なのに、どうしていらっはったんですか? お二人も会社を休まれたら大変やないのですか?」

「ああー」新井さんがへらへらしながら頭を掻いた。新井さんはたまにリアクションが昭和なときがある。「私は正確には海波さんの元部下で、昨年退職しているんです。で、海波さんも昨年末に少し体調を崩されて休職されているんで、問題ないです」

「休職? ほんまけ?」母が私に顔を向けた。女将ではなく母の顔になっている。「アンタ、東京でバリバリ働きたい言うておきながら、休職って何なん。それに、体調崩した言うて、元気そうやなないか」

 休職して一ヶ月もすると体調を崩すことがなくなったのは事実だった。

 最初に体調を崩したのは昨年の夏、ちょうど新井さんの退職が決まった頃だった。喉が痛かったり洟が出たりするわけでもないのに、微熱や倦怠感が続いた。早起きが唯一と言っても良いほどの特技だったのに、ベッドから身を起こすのもつらいときさえあった。数日お休みをいただいて病院を回ってみても、低気圧のせいだとか自律神経が乱れているのではないかなどとぼんやりしたことを言われるだけで、具体的に悪い箇所は見つからなかった。

 診察結果を会社に報告したところ、これ以上休まれるのは会社としてもつらいので、せめて通勤の負担を減らそうと在宅勤務に切り替わった。それで多少身体の具合がよくなったときもあったが、それでも週一、二日は微熱が出る日が続いた。体調を押してでも働いている事態を問題視した産業医によって、今年の頭から休職して様子を見ることになった。

 新井さんが私のもとを訪問した一月半ばは、少しずつ良くなっていたものの、仕事をしないで過ごすことに慣れないためか、あまり元気が出なくて引きこもりがちの生活を送っていたところだった。新井さんを誘ったのも、新井さんに代わりに外に出てもらえれば私は引きこもっていられると考えたのも理由の一つだ。

 しかし、共同生活は意外な効果をもたらした。他人と生活を共にすることで生活に張りが出たのか、二月になる頃にはかなり元気になっていた。ただ、家の外を出るのは億劫だったので、マンションの地下室にあるトレーニング施設を使用できるオプションに加入し、私はそこに通うようにした。平日の昼間に行けば、他に使っている人も少ないから快適だ。今はほとんど熱も出なくなり、倦怠感も消えた。

「今まで休まず働いてたんやから、ええやないの。自活してるんやし、私の勝手やない」

「アンタが旅館継ぐ気ないなら、結婚して子ども産みや。もう四十になったんやろ。これ以上遅なったら産めへんで」母が立ち上がって一歩私の元に近付き、私の下腹部を指さした。

「結婚も出産も子育ても興味ない言うとるやろ。仮に子どもを産んだとしても、その子が旅館に興味示すとも限らへんし」

 私も思わず身を乗り出すと、まあまあ、と新井さんが言った。明らかに困っている顔だった。そりゃそうだろう、親子喧嘩の修羅場に巻き込まれているのだから。

「どうせアンタにはまともに子ども育てられへんから、私が引き取って立派な女将に育てたる。私が不妊治療代も出すさかい、産めや」

「だから産まへん言うとるやろ」

「あの!」

 新井さんが突然立ち上がった。立ち上がるときに膝をちゃぶ台にぶつけたのか、取り皿によそった雑炊が少し零れた。しかし、ぶつけたところも痛がる様子もなく「お義母さん!」と母の方を向いた。

「は、はい」唐突だったからか、母も目を丸くして新井さんの方を見つめている。

「海波さんは、私が幸せにしますから、心配しないでください!」

「は?」母よりも先に私がリアクションしてしまった。

「私、海波さんと一緒に、幸せになりますから! ね!」

 新井さんの顔はなぜか自信に満ちているように見えた。まだ新井さんの描いたマンガはどこの出版社からも声が掛かっていないのに、何の根拠があってそんなことを言っているのだろう。

 でも、この子のことを何となく応援したくなった。前までは上司としてサポートしていたが、これからは同居人およびマンガ原作者として。

 私は半ば無意識に「うん、二人で幸せになろう」と答えた。

 母はしばらく私と新井さんを交互に見遣った後「あ、そういうことなん?」と呟いた。「それならそうと早く言ってくれれば……」

 母は何を考えたのか顔を赤くして、消え入りそうな声で「お幸せに」と言うと、音を立てずに襖を閉めた。

 雑炊はまだ湯気を上らせていた。

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