三の九
冷蔵庫を確認すると冷やご飯が余っていたので、夕食というか夜食は蟹雑炊にすることにした。旅館のお客様に出す食事としてはあってはならないが、ルームシェアの相手、否、居候相手への食事と思えば、十分豪華な方だろう。
冷やご飯をざるにあけて流水ですすぎ、余分なぬめりを取る。土鍋に水の状態で蟹の残った胴体部分と魚のアラを入れて、弱火で火を入れて出汁を取る。数分したら蟹と魚のアラを取り除き、キノコ類、ご飯、ほぐした蟹の身を入れ、溶き卵で閉じる。三つ葉を添えたら完成。
お盆を床に置いて襖を開けようとすると勝手に襖が開いた。ニヤリと笑った新井さんが顔を出した。
「ご飯できたんですか? いやあ、お構いなくと言っておきながら待ちくたびれちゃいました」
「よく私が来たって分かったね」
「だって足音がしましたから」と言いながら新井さんは座布団の上に座った。「早く、早く」
「はいはい」と笑顔を崩さないようにしながら、心の中で自分に絶望した。
旅館を継ぐ気はないとはいえ、小さい頃からお客様を目の前にしても失礼にならないための最低限の作法は、祖母から一通り教えられていた。祖母は、母相手には和やかだったが、私相手にはむしろ厳しかった。それもこれも、今考えれば血が繋がっている故かもしれない。血筋、血縁の何がそんなに大事なのだろう。血縁があれば許されるってものでもないはずなのに。
それは置いておいて、そのときに祖母から足音を立てない歩き方も教わっていた。それなのに、どうやら今私は、旅館になれていないお客様にさえよく聞こえるほどの足音を立ててしまったらしい。祖母から教わったのが三十年近く前だから忘れてしまったのだろうか。それでも身体が覚えているだろうという自信があっただけに、ショックだった。
私が自分のしでかしたことに呆然として固まっていると「もう、早く食べましょうよ」と言って新井さんがお盆を持ち上げた。まあこの子ならいいか。失礼かもしれないが、新井さんを目の前にすると自分の粗相も許せてしまう。
いただきます、と言って新井さんが雑炊を口に運ぶと「うまーい」と口元を緩めた。
新井さんがウチに引っ越してきてから、家事の大半は新井さんがしてくれているが、ご飯は私が作っている。朝は新井さんの方が起きるのが遅いので私がトーストや目玉焼きなど簡単なものを用意する。昼ご飯はたまに新井さんがスパゲッティを茹でてくれるが、基本は私が前日の夕食の余り物などで軽く用意することが多い。夕食は、一人暮らしのときは外食が多かったが、今はなるべくおかずを複数作るようにしている。
たまに新井さんが「今日は私が作りますよ」と言ってくれる。だが、メニューは数種類しかなくて、具材が一口では入らないほど大きく切られているカレーかシチューかポトフかのどれかだ。一度「ちょっと大きすぎない?」と言ったのだが「噛めば同じですよ」と新井さんにはまったく響かなかった。実は、私は顎関節症で、口を大きく開けると顎が外れやすいのでなるべく大口を開けたくない。新井さんの響かなさには一瞬ムッとしたが、新井さんが大きく口を開いてワイルドな具材を頬張っている姿を見るとある意味での癒やし効果がもたらされ、何も言う気にならなくなってしまった。そもそも、大口を開けたくないというのは自分の都合だからということで、料理は新井さんに頼まずに自分で作ることにしたのだった。
その分、新井さんには食料調達をお願いしているので、今は特に不満はない。「あっちのスーパーの方が牛乳安いんで」などと、近所のスーパーの特徴を把握して賢い買い物をしてくれるのも助かっている。
私は今日もレンゲを飲み込む勢いで雑炊を描き込む新井さんを見て「別に、普通でしょう」と返した。
「そんなことないですよ。やっぱり漁港が近いから素材も良いんじゃないんですかねえ」
「新井さん、また食べるの早くなってる」
新井さんは早食いだ。部下の頃からそう思っていたが、案外本人は早食いを気にしていたらしく、同居を始めた際に「私早食いになりがちなんですけど、本当はゆっくり食べたいんで、食べるの早いと思ったら指摘してもらえますか」と頼まれていたのだった。なぜゆっくり食べたいのかと言うと、その方が少ない量で満足できるかららしい。




