三の七
私が部屋に入ると、新井さんはすでに畳の上に大の字になって寝転んでいた。私の実家に来て少しは委縮するかと思ったが、振り返ってみれば新井さんという人は居候初日でさえリビングに置いたベッドで熟睡した神経の太い人だった。
「はー、畳久しぶり」新井さんは手で畳を撫でていた。「すみません、荷物持ってもらって」
「ここでは新井さんはお客様、私は女将でも何でもないけど、これでも旅館側の人間だからね」
自分の分も合わせてお茶を用意する間、新井さんは窓から外の景色や中庭を見たり、畳の上に寝そべったりとせわしなく動いていた。個人経営の旅館に泊まるのは初めてなのかもしれない。ちゃんとおもてなししなくちゃ。
「そう言えば、新井さんご飯食べてないよね? まかないみたいになっちゃうけど、これから軽く用意してくるね」
お茶を淹れて席を立とうとすると、寝そべっていた新井さんが私のセーターの端を掴んだ。微笑むわけでもなく真剣な表情をしている。
「何?」突然のことに驚いている自分のことが悟られていないと良いが、と頭の隅で私は考えていた。
新井さんは二、三秒ほど黙って私の目を見つめた後、頬を緩めて「いや、谷口さん、なんかお母さんみたいだなって思って」と言うと、ぱっと手を離し「夕食、どうぞお気遣いなく」と空中に向けて言葉を放つとまた横になった。私のときめきを返せ。
後に話を聞いたところによれば、新井さんは私と駅で会う前に居酒屋で一杯ひっかけていて、このときは少し酔っぱらっていたとのことだった。このときのことは記憶にないらしい。
厨房に入ると、恐らく明日の朝食の仕込みをしていたのであろう母がいた。私の姿を見るなりキッと睨みつけると、台所に広げていたものを手早く冷蔵庫に仕舞い始めた。
「ちょっと厨房使ってもええ? 新井さんに軽くでもご飯食べてもわな」母が黙っているので私から話しかけた。
「ええけど、一番奥の冷蔵庫に入ってる食材は使ったらあかんで。明日お客様にお出しする料理やから」
「分かっとる」
冷蔵庫は、業務用の観音開きのものが一つと、調理場の下が冷蔵庫になっているものとがある。母が使うなと言ったのは、一番勝手口に近い、調理場の下の冷蔵庫のことだ。
港からほど近いということもあって、もっと旅館が栄えていた頃には、夜が明けないうちから料理長さんが漁港に赴いて新鮮な材料を仕入れ、それを朝ご飯に出すこともあった。しかし、今となっては母一人でこの旅館を切り盛りしているので、そこまでのサービスを提供するのは難しくなった。だから母が夜のうちから朝食に出す食材を仕込んでいたのだろう。
旅館の従業員がいなくなったのは私のせいだ。
母は専門学校を卒業して早々に旅館のオーナーをしていた父とお見合いで結婚し、美波荘の若女将となった。観光業とはまったく縁のなかった母は、私の父方の祖母である先代女将から教育を受けた。
しかしながら、その「教育」というものは、よく巷で想像されるような嫁姑関係を交えた手厳しいものではなかった。祖母は、祖父が戦死してから戦後一人で旅館を立ち直らせた、想像に忍びない苦労を経験していた。そんなつらい思いをするのは自分一人だけでいいと、母には優しく教育したのだ。おかげで母は祖母とも仲が良かったし、旅館のことも好きになった。調理師専門学校を卒業して就職せずに結婚した母にとっては若女将が初めての仕事だったが、母は接客業が向いていたらしく、楽しそうに仕事をしていた。その頃は家の中も平和だった。