三の六
駅から歩いて十分ほどのところに、私の実家である旅館「美波荘」はある。
築六十年以上が経つ木造の古い日本家屋で、文化遺産でも何でもないけどもどこか懐かしい雰囲気を放っている。入口までのスロープは見た記憶がないので、私が家を出てから少し改良したのだと思われる。
ステンドガラスが嵌められた和洋折衷の引き戸を開けると、少し大きな家の玄関程度の三和土が待ち構えている。上がって正面がフロントとロビーだ。
一階はフロントの右手にやや小さめの部屋が二つ、左手は厨房や私の家、浴場。フロントの奥にある中庭は、部屋に行く途中の縁側から眺められる。
フロントのすぐ脇にある急な階段を上ると、二階の部屋が並ぶ。二階は一回より大きめの部屋が三つある。階段を上がって左の部屋が最も大きい。中庭や外の景色も最もよく見える部屋だ。
重苦しい心を引きずりながら玄関の引き戸を開くと、左手からパタパタと聞き覚えのあるやたらリズミカルな足音が聞こえた。ここに住んでいた頃は、足音だけで誰がどこで何をしているのか聞き分けられたものだった。
やがて、紅梅色の着物を着た高年女性が「いらっしゃいませえ」とたすきを解きながら姿を現した。美波荘の女将で私の母、谷口圭子だ。
「あら、誰か思うたら、アンタか」
営業用にニコニコと笑っていた顔が途端に崩れ、母は口をへの字に曲げた。何年ぶりかに見る、よく知る母の顔だった。
「私は構わへんから、今日この子泊めて欲しいんやけど。空いてる部屋ある?」
私が右手で後ろを指さすと、私の背後からひょっこり新井さんが出てきて「こんばんは、海波さんの部下で、今ルームシェアさせてもらってます、新井実奈と申します」と挨拶した。
「なんや、お客様いてはるなら、はよ言いなさんな。いらっしゃいませえ」母は慌てて三つ指を付いて新井さんに挨拶した。
「どの部屋なら使ってええの? 準備と荷物は私がやるけ」
「鶴の間使うてもらい」
鶴の間は二階の最も上等な部屋だ。
「鶴でええの?」
「アンタがお世話になってる人やろ、上等な部屋に案内せな」
「せやな」私は振り向いて自分のボストンバッグと新井さんのバックパックを受け取った。「新井さん、奥に見える階段上がって右手にある『鶴』って書いてある部屋に入って。私、準備あるから。荷物は後で持って行っておくね」
新井さんは靴も脱がずに私の方をじっと見入っていた。
「新井さん? どうしたの?」
「いやあ、谷口さんが関西弁使うところ始めてみたのが新鮮で」手を口で覆って新井さんは目を輝かせていた。「あ、行きますね」
確かに、母という関西人を目の前にすると無意識に口から関西弁が出ていた。もうしゃべれないとすら思っていたのに、子どもの頃の習慣とは恐ろしい。
母は新井さんが階段を上がっていくのを見届けて「どうぞごゆっくり」と言った後、私の方に一瞥をくれて厨房に引っ込んだ。