三の五
久々に訪れる兵庫には何の懐かしさも感じなかった。最後に法事のために来たのがいつだったかも思い出せない。
高校生のときも、田舎でBLを書くから変な目で見られるのであって、東京ならきっと大丈夫なはずだと思って東京の大学に進学すると言い出したのだった。上京して以来、ほとんど地元には帰っていない。
私の地元が兵庫だと知って新井さんはどう思ったのだろう。私は自分のことをあまり隠す方でもないが、地元だけは極力言わないようにしていた。関西人っぽくないと言われるのが嫌だったからだ。実際、長いこと関西弁を喋っていない。頭の中で一語ずつイントネーションをシミュレーションしてから離さなくても、標準語をぺらぺらと話せるようになった。
それにしても、新井さんはどうやって私の故郷を突き止めたのか。
姫路駅で新幹線を降りて、さらに日本海側に進んだ先にある豊岡、そのさらに奥の城崎温泉。ここが私の故郷だ。母は女将として小さな旅館を営んでいる。高校を卒業するまで私はこの旅館の中にある家で過ごした。新井さんの家も東京から遠いが、辺鄙さで言えば私の家もなかなかな勝負になるはずだ。
城崎温泉駅の改札を出ると、リュックを背負ったアクティブそうな新井さんの姿があった。頬が健康そうなピンク色に染まっている。きっと温泉にでも浸かっていたのだろう。
「私、散々連絡したんだから、少しは返してよね」
珍しく元部下を叱って、右肩にずっと掛けていたボストンバッグを降ろすと、私は肩を数回ほど回した。
昼間、新井さんがどうやら私の故郷にいるらしいと分かってから「私に少しは申し訳ないと思っているなら、午後八時に城崎温泉駅の改札で待ってて」とメッセージを送った。すると、メッセージの返答はなかったものの、ずっと付かなかった既読マークが初めて付いた。メッセージを送った直後には、新井さんの反応を待たずにすでに一か八かで新幹線に乗っていたから、ここまで足を運んでまで肩すかしを食らわなくて良かったと思うことにしよう。
「よっと」と言いながら、新井さんが、私が床に降ろそうとしたボストンバッグを受け取って、肩に掛けた。「よくここが分かりましたね」
「それはこっちの台詞だよ。SNSに写真アップしてたでしょう。地元民舐めんなよ」
「やだ、桜田萌果のSNS見つけたんですね」
「それより、新井さんこそ、どうやってここが私の地元だって分かったのよ」
「ああ、それね」と言いながら新井さんがスマホを弄った。「最初に小説を読んだときに、私気になって谷口さんがどういうペンネームで小説書いているか探ったんですよ。谷口さんのペンネーム、『武内美波』ですよね?」
「そこまで辿り着いてたのか……」
私はこめかみの辺りを左手で押さえた。新井さんはどちらかというと何もないところで躓いたり、会議中に無意識に手いたずらしたりとか、はっきり言って職場でもどんくさい方だと思っていた。いくら若いとは言っても、そこまでサーチ能力があるとは思っていなかった。部下を舐めすぎていた。
「そのペンネームで検索して、投稿サイトに上がっている別の作品をたくさん読ませていただいていたんです。そしたら、兵庫の城崎温泉を舞台にした作品の後書きに『故郷をイメージして書きました』って書いてあったから、じゃあ兵庫が地元なのかなって思って。確かに、他の作品と比べてもずいぶん情景描写がリアルだなあって思ってたんですよね。しかも現地に来たら本当に小説そのまんまだったからびっくりしましたよ」
そう言えば、会社を休み始めてから最初に書いた小説は故郷を舞台にしていた。大遅刻という理由でビックプロジェクトの受注に失敗して、傷心旅行で一人ふらふらと城崎温泉にやって来たサラリーマンと、小さな旅館の支配人の話。サラリーマンが温泉街を巡る描写は、まさに私の昔の記憶から引っ張ってきたものだった。私の記憶はかなり古いから、きっと今の温泉街は全然違うのだろうなと思いながら書いていた作品だ。
「でも、谷口さんがまさか関西のご出身だったなんて思いませんでしたよ。ねえ、なんか関西弁喋ってくださいよー」ニヤニヤしながら新井さんがねだってきた。
「ダメ、もう関西弁なんて忘れたし。で、何で新井さんはここに来たの?」
「谷口さんのご実家に行くためです」
「実家? 行きたくないよ」
法事のために稀に地元に戻ってきたことはなくもないが、実家にはさらに足を運んでいない。
「何でですか? ここに戻られたのも久々なんじゃないんですか? 私、お電話でも谷口さんのご家族に挨拶したことないですし、一度お会いしたいです」
「嫌」
私は新井さんが背負ってくれていたボストンバッグを手に取ろうとした。しかし、新井さんが持ち手を強く握りしめていて返してくれない。新井さんは力自慢なところがあった。職場でも、何かというと「私、小さい頃柔道やってたんで」と口癖のように言っていた。
「谷口さん、今までご実家のこと全然教えてくれなかったじゃないですか。何か理由があるんじゃないかなって思って、ここに来たんです。せっかくここまで来たんだし、行きましょうよ」
「嫌だ」
私は再度ボストンバッグを引っ張ったが、びくともしない。新井さんを睨むと「私、力には自信があるんです」と言ってにやっと笑った。知ってるわ。
「バッグ返して」
「一緒にご実家に行きますから、そしたらお返しします。案内してください」
「もう夜も遅いし、東京に帰ろう」
「夜遅いなら、尚更ご実家行きましょうよ。あの小説から考えると、ここからそう遠くない場所にある小さな旅館がご実家なんでしょう? 何なら、小説を読み返して、そこに書かれた道順通りに一人でこれから行きますけど」
新井さんが会社で働いていたときは「完成図と工程がイメージできない」と言ってプロジェクトの計画を立てるのが苦手だったのに、今の新井さんはかなり冴えているように見える。私は大きな溜息を一つ吐いて「分かったよ、着いてきて」と歩き出した。