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ミナ  作者: 嘉多野光
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二の六

 刹那、谷口さんがテーブルを強く叩いた。下からなのでよく見えないが、この家で聞いた中では一番大きな音だったので、恐らく拳で叩いたと思われる。手を切っていないといいのだが。

 谷口さんが感情を露わにする姿が元部下としてはそもそも新鮮だなと、どこか他人事で谷口さんを眺めていると(そうでもしないと怖くてちびりそうだった)、谷口さんは椅子から離れて私の元にかがみ、胸ぐらを掴んできた。一瞬、息の根を止められると思った。

 なるほど、上司と部下の関係なら胸ぐらを掴んだら百パーセントパワハラになるが、今の関係ならそうはならないな、などと感心しながら、私は「うぁ」と口にしていた。潜在意識では胸ぐらを捕まれたことで相当縮み上がっていたようで、まともな言葉が口から出なかった。こんな暴力的ななこと、人生で一度もされたことがなかった。

「あれは絶対顔見知りには見せられないものなのに、見たんだね」谷口さんの目は、赤目の兎かというほど充血していた。

「見せられないほどのものでしたでしょうか」

 谷口さんを傷つける行為をしたのは他でもない私だというのに、言い訳がましいなと我ながら思った。しかしながら、言い訳や話を逸らすことは私の得意技でもあるので、やめるにやめられなかった。

「純粋に面白かったですよ。だからマンガにしたわけで」

「うるさい!」

 谷口さんが私を突き飛ばした。とはいえ谷口さんは非力なので、尻餅をついた程度で済んだ。

 谷口さんは一回肩で呼吸してから立ち上がると「一人にさせて」と言って家を出て行った。外はまだ寒いのに上着も着ずに大丈夫だろうか。追いかけるか上着を着るよう薦めるか考えたが、わずかに残っていた冷静な自分がどちらもやめさせた。そういう問題ではない。

 私は起きたことを冷静に受け止めているようで受け止めていられてなかった。しばらくリビングから玄関を眺めて、今起こったことを整理して理解しようと努めた。

 あんなに怒っている谷口さんを見るのは初めてだった。新人の凡ミスで作業がやり直しになったり、まずい情報がお客様に伝わってクレームの電話を受け取ったり、上司に理不尽に怒られたりしても、顔色一つ変えずに眉をピクリとも動かすことがなかった谷口さんが、あんなに顔を赤くすることがあるとは。全身震えることがあるとは。外に出て頭を冷やさないと行けないほど感情に振り回されることがあるとは。しかもその原因が百パーセント私とは。

 私が発注先である外の建築士さんにスケジュールを誤って伝えて関係者全員から叱られたときでさえ、谷口課長は多少叱りはしても大して怒らなかった。だから、てっきり谷口さんにはあまり感情がないのかと思っていた。

 しかし仕事以外の別のところでは、しっかり情動があったようだ。つまり、それだけ何にも動じない谷口さんを、私は怒らせてしまったのだ。いわゆる地雷というヤツである。

 少しずつ冷静になると、自分の受け答えも鮮明に思い出せるようになった。私、最初こそ謝ったし土下座もしたけど、その後谷口さんにちゃんと謝ったっけ? 面白かったですよとか抜かして、いつものように言い訳してなかった? 私はだんだん自分のしでかしたことのまずさを改めて感じ始めていた。

 谷口さんがドアを開けっぱなしにしていたことに気付き、ドアを閉めたが、いつでも帰って来られるようにと、鍵は掛けないでおいた。

 春の夜風がすっかり部屋を冷やしきっていた。

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