38-魔女の呪い、そして無垢な殉教者は理想郷へ向かう
残り、三話で完結します。
こんなに拙い文字をわざわざ読んでいただいて、感謝です。
誤字脱字指摘、感想等ありましたら是非お願いします。
彼は長年暮らした墓を離れ、狐や狼を殺し、毛皮を売った。
十分な金が溜まったころ、彼は墓に戻った。既に、男たちは村に戻っていた。
老人の家には彼女と新しい奴隷がいて、甲斐甲斐しく老人の世話をしながら、新しい奴隷は話を聞かせていた。彼女は彼を認めると、いつものように笑って迎え入れた。
『爺、こいつを買い取らせてくれ』彼は言って、老人の前に金貨を投げつけた。
老人は首を振った。『もう次の買い手は決まっておる』
『それなら、そいつ以上に金は出す。どうだ?』
『金など、何の価値もない』老人はにべもなく言い捨てた。『わしにとって価値のあるものは、わしの知らないことだけだ。既に、わしは代価を受け取っておる』老人は、新しい奴隷の男に顎をしゃくった。
彼女は翌日、老人の家から姿を消した。彼女を買い取ったのがダミルだと彼は知っていた。だから、彼は、数日後彼らがまた村を去るのを待って彼女に会いに行った。
彼女は家畜小屋の汚物塗れの土間に座り込んで、泣き腫らしたいつもより腫れぼったい目で彼を認めて、表情を和らげた。
『ロスタム』彼女はかすれた声で嬉しそうに言った。
『さあ、行こう』彼女の前で跪くと、彼女の頬に付いた泥を拭った。
『今なら逃げられる』
彼女は首を振った。
『もう、足が動かないの』
彼女は足の裏を大切そうに触って、涙で詰まった声で続けた。
『足を切られちゃった』
彼女の両の踵は二つに割れ、そこから肉が覗いていた。
『馬で行こう。東に行くんだ。爺が言ってただろ。東の大国は豊かで、色んなものが集まる場所だって。きっと、俺たちだって生きていける』
彼女は首を振った。『でも、私は二度と歩けない……。自分の足で』
『だったらどうする? ずっとこのままか?』
彼女は首を振った。
『あなたは、どうしてほしいの?』
彼女は縋るように彼を見上げて、見つめて、言った。
彼は何度も訴えたが、彼女はとうとう何かを決めた。
彼女はその目にいっぱいの涙を溜めて、必死に訴えるように言った。
『私は殺してほしいの。……ただ、あなたに』
血の気が引いた。大波が押し寄せる前に波が引くように。
『正気なのか? 俺がここに来た理由をわかって言ってるのか?』
彼女の眼は確信と自信に満ちていた。
彼女は頷くと、微笑みを湛えて、両の眼の端から涙を溢した。
彼は激昂して、彼女を殴りつけた。彼はもう何も考えられなかった。彼は堰を切ったように泣き出した彼女を茫然と見ていた。
音を聞きつけて家畜小屋に入って来た老女を、彼は松明で撲殺した。
『俺は、助けに来たのに! なんで、殺さないといけない! 俺は、ただ、助けに来ただけなんだ』彼は彼女の肩を揺すった。
『俺に罪を被せないためなんて考えならやめてくれ、俺はもう、今、あのダミルの母親を殺したぞ。もう、引き返せない』
『……それでも、死にたいの』彼女は嗚咽を懸命に抑えて、絞り出すように呟いた。
彼は鼓動が止まるのを感じた。その後に彼の頭の中を激流のような鼓動が支配した。
ナイフを取り出して、彼女の頭を掴んで、思いきり壁に叩きつけた。地面に落ちた松明の明かりは、泥の上に横たわり赫々たる最後の光を滲ませ、燠のように燻った。彼女の喉元に冷たいナイフを当てがった。鈍い音が鳴って、嗚咽が止まったかのように、彼女の声は鮮明に、冷淡に聞こえた。
『ありがとう。愛してる』
細い首を乾いた冷たい空気に晒して、言った。無防備な喉が艶めかしく隆起するのが分かった。
彼は、彼を支配していた髪の先まで上りきった血の気が引いていくのを感じた。風が強く吹き、小屋の戸を叩きつけた。熾火は再び火を吐き出し、もはや止めようがなかった。
彼女の頭を掴んだ腕を放して、ナイフを脹脛に突き刺した。彼女は痛みのあまり甲高い泣き声を上げた。
彼は彼女の割れた踵を掴んで、ナイフを突き押さえつけたまま引き裂くように引っ張った。
彼女は地べたに倒れ込み、火照った顔を冷ますように泥に顔を擦り付けた。広がった傷口からは、薄い色の血が滔々と流れて、薄汚い糞尿を含んだ泥と混ざり合った。
『どうして、こんなにもあなたを愛してるのに』彼女は泣き喚いて、懇願するように言った。
彼は松明を拾い上げた。
『死ぬのなら、勝手に死ねばいい』彼は、家畜小屋に火を放った。
家畜小屋の外から、彼女の泣き喚く声が聞こえた。彼は、火が小屋を覆い、村に移りつつあるのを立ち尽くして見ていた。
呪ってやる、必ず、殺してやる。
住処を追われた梟が小屋から飛び立った。
彼は墓へ行き、老人を訪ねた。出迎えた奴隷を殺して老人を曳きずって墓を掘り起こさせた。地面にぽっかりと穴の開いた霊室に老人を無理に押し込み、その中に火を投げ入れた。
木の上に留まったあの梟は、緑の丸い双眸で彼を睨めつけた。降り始めた雨は、火を消すには十分ではなかった。
彼は、無窮の青空の下を、無窮の砂漠を、延々と進み続け、『大交易路』を通って東へと向かった。連れていた馬は潰れ、残ったのは頼りないロバのみになった。彼は煙の甘い匂いがついた自分の髪を切って、舐り始めた。なんとなく、甘草の味がしたのを覚えている。
「カガン様」ニーナは寝具の横に座って、彼の手を力強く握ったまま言った。
「どうなることかと、本当に不安だったんですよ」彼女は泣き腫らした目元で微笑んだ。
「ニーナ」彼は安心して、彼女の痩せた頬に手を当て、微笑した。「俺は生きてるのか?」
「もちろんですとも」
彼女はその手にキスをして嬉しそうに言った。
「生きていなければ、こうすることだってできません」
「だけど……」
彼女は黒くて細い眉を曲げて呟くように言った。
「アーカス様が捕らえられてしまっているんです……。どうか、助け出してくださいませんか?」
「あの男は、お前を見殺しにしようとしていたんだぞ?」
「わかっています。それでも、私には返しきれないほどの恩があります。どうか、お願いします」
「駄目だ。お前は、この戦が終われば俺の物になるはずだったろう。あんな男は忘れろ」
「あなたは、アーカス様を裏切った。あなたの方こそ約束を破ったじゃありませんか」彼女は眉間にしわを寄せて、困ったように眉を曲げ、彼を睨みつけた。
「アーカス様を助けてください。そうすれば、私はあなただけのものになりましょう」
「俺を試すのはやめろ」カガンは語気を強めた。「あの男はあの男だ。俺はあの男とはもはや何の関わりもない」
「ですが、あなたが裏切らねば、私たちは今頃、玉座の側でお仕えしていたでしょう? 私が想像していたのはその光景だったのです」
「俺は、お前たちを利用した。ただそれだけだ」
彼女は息を呑んだ。「あれも嘘だったと言うことですか」
彼女は、悲しそうに言った。
「お前を俺の物にしたいと思ったのは本当だ。美しい体も、繊細な表情も、その健気なところも気に入ってる」
彼女は笑みを浮かべた。「よかった。私を愛しているのですね?」
「ああ。その通りだ」
「私も愛しています。今まで、こんな私を愛してくださったのはあなただけです。アーカス様だって私を拒否した」彼女は愛おしそうに、安らかな笑みを浮かべた。
「今からでも俺の物になるんだ。あんな男は忘れろ」彼は言った。
彼女は唇を噛んで首を振った。
「何か言いたいのか?」
「どうか、どうかお許しください」
彼女は慌てて言うと、金の柄のナイフを彼の腹の上に置いた。
「アーカス様は、あなたが裏切るようなら殺せと命じていました。ですが、私はもう、あの男よりも、あなたのことが大切なんです。約束します。あなたがアーカス様を逃がしてくれるなら、私はあなたの物になります。それでやっと、身も心もあなたの物になるんです」
「私の願いが叶わないのなら、私は死にます」
「どうあっても、あの男を助けて、お前を生かすことはしない。そんな条件は飲めない。俺はもはやあいつの側の人間じゃない」
彼女は彼の唇にキスをすると、無邪気に笑って見せた。
「わかっています。それは難しいことですね。あなたを殺す機会はいくらだってありました。それでも、あなたの少年のような、清らかで穏やかな寝顔を見てしまって、結局はできなかったの」
彼女は、彼の横で子供のように寝具に寝そべって、キスを迫った。
「私は、アーカス様を見殺しにして、のうのうと生きることなんてできないわ。ねえ、あなた。私のとっておきの話をしてあげましょう」
彼女は彼の腕を枕にして寄りかかると、意地悪そうに笑みを見せた。
「私はね、折檻を受ける時に豚小屋に繋がれていたの。それで、喉が渇いてしまって、何日もの間そこの汚水を啜って生き延びたのよ。自分の糞尿と、豚の糞尿と泥が混ざった汚水よ。アーカス様はそれを知っているから、私がキスをしようとするといつも嫌がってさせてくれなかったのよ。驚いたでしょ?」
「だから何だ。お前が望むのなら、いくらでもしてやる。だからあんな男は忘れちまえ。
誰かのせいで生き様を縛られるなんて、くだらん考えはするな。お前の所有権はあいつにも、俺にすら今のところはない」
彼女は嬉しそうに、彼の腕に頬ずりをした。
「これほど幸せな気持ちになったことはないわ。今のうちに、私を殺してください。こんな手触りのいいシルクの寝具で安らかに、何事もないまま眠った事なんて、一度もなかったの。夢だった。あなたほど愛した人も、愛されたことも一度もなかったんです。どうか、今のうちに殺してください」
彼はため息を吐いた。
「俺はお前ごときに生き様を縛られたくはない。欲しいものは全て手に入れるのが俺の生き様だ。だけど、今日のところはお前を殺してやる。俺がお前を巻き込まなかったら、お前をこれほど悩ませずに済んだだろうから」
俺のせいだ……。お前は俺を責めていい。カガンは呟いた。
彼女は仰向けになって、幸せそうな笑みを浮かべていた。
「こんなに愛されているなんて思いもしなかった。あの男じゃなくって、あなたが私を買ってくれたならどれほどよかったでしょうね。ああ、最後にキスしてくれませんか?」
彼女は彼の腕の上で目を瞑って、瞼の裏に彼の影が覆いかぶさるのを待った。
彼女は、黄金色の麦畑の中をかき分けて、いつも彼女を隔てたあの川にたどり着いた。そこからは、丘の上に立ついくつもの石柱が見えた。
あの神殿だわ。黄色がかった象牙色の神殿。天蓋を失くしたあの神殿で寝そべって、ただ黄金色の日に当たって眠れたら、どれだけ気持ちいいでしょう。あそこで眠ったなんて、アーカス様はなんて羨ましい。
ああ、なんて美しい私の故郷。バアルベック。
彼女は安らかな表情で、一筋の涙を、白く、細い頬に伝わせ息絶えた。
彼はため息を吐いた。「お前が思ってるよりも、殺すのは簡単なことじゃないんだぞ」
彼は血で赤くなった、体中を覆った白い布を外した。




