37-ツクナライ丘陵の戦い- 7.一騎打ち、そしてあの悪夢へ
読んで下さり、ありがとうございます。
本日、残り四話で完結します。
誤字指摘、感想等お待ちしております。
アレクシアは、カガンの加勢をしようと今にも飛び出そうとするレオンをたしなめながら、二つの戦いの行方を見守っていた。
縦深を深くした右翼の突撃は、彼女の想定通り敵軍左翼を破壊し、敵の戦列を側面から攻撃し始めた。しかし、敵軍右翼の底力はすさまじく、左翼の突撃を耐え抜き、破壊して側面に回り込み、攻撃を始めた。戦場はもはや、どちらが素早く敵軍を食い尽くすかの泥沼の様相を呈した。
そして、丘の中腹で相対した両雄もそれを知っていた。故に、彼らは正面から敵の将を打ち破り、敵軍の士気を挫き、兵たちに勝利を彷彿とさせる必要があった。
「レオン様、これが戦士の決闘なのです。誰であれ介入する余地はありません。ですから、どうか。彼の無事を祈っていてください」
レオンは彼女の説得に平静を取り戻すと、手綱を力いっぱい握って沸き立つような怒りを抑え込んだ。
「一騎打ち! 一騎打ちじゃ!」シルクリフは奮闘する兵たちに叫んだ。
先頭に加っていない互いの兵たちは、丘の上で対峙する二人の男に注意を向け、縋るような視線を彼に向けた。そして、木霊のように異口同音に叫んだ。
『一騎打ち! 一騎打ち!』
盾に剣を叩きつけ、自らの鼓動を刻んだ。
『一騎打ち!』
「手負いのお前ぇさんが、どうやって俺に勝つつもりだ?」ピピンは敵の首元に当てがったイベリアの宝刀を下ろし、半歩下がって構え直した。
「降参を宣言するなら、今だけは見逃してやろうか?」
「お前の方だって手負いのようだがな」カガンは寝ぼけたような表情で敵に槍の切っ先を向けた。
「命乞いはしなくていいのか? お前は、俺に勝ったことなんて一度もない」
ピピンは憮然と息を吐き出すと、唐突に曲刀を振り下ろした。カガンは慌てて身を反らし、尻餅をついた。
「俺ぁ、この国を滅ぼして、帝国に貢献して、俺の国を建てる手はずだったんだ。それが、お前ぇのせいで全部台無しになっちまった! あの時、お前ぇを確実に殺しとくべきだった!」
男はカガンの右腕で握った槍を左足で踏みつけると顎を蹴りつけた。倒れ込んだカガンの胴を右足で思いきり踏みつけた。折れた肋は音を上げて肉の内に食い込んでいった。カガンは堪え切れず悲鳴を上げた。
「頼む……、やめてくれ、息ができない」カガンは目から涙を流し、右腕、折れた左腕をピピンの太い足に叩きつけながら、必死に訴えた。
「死んじまう、頼む、ピピン……」
ピピンは楽しそうに、憎らしそうに笑みを見せた。
「お前ぇさんがそんな顔を見せるとは思わなかったなぁ。俺ぁ、今少し失望してるぜ。あのカガン様が、俺の女を何度も獲って、我が物顔してたお前ぇさんが、こうして、犯した女たち、拷問した男たちみたいに無様に命乞いするのを見ることになるなんてなぁ。こんな悪人を殺すんじゃ、良心の呵責を感じずに済む。むしろ、これは褒められるべきことだぜ」
「なんだ、何が言いたい?」ピピンは、カガンの声にならない呻き声に耳を傾けた。
「ああそうか。今、楽にしてやるよ」彼は、カガンの首元に曲刀を突きつけて振り上げた。
カガンは偶然地面に刺さっていた矢を掴むと、引き抜いてその矢じりを思いきり右脚に突き刺した。肉を抉るように力いっぱい押し込んだ。塞がりかけていたピピンの傷口に深々と刺さり込み、男は情けない大声を上げて飛び上がった。
「学ばないやつだな」
カガンはむせ返り、吐き出しそうになった血を飲み込むと、立ち上がって痛みに悶える男に迫った。カガンは男が手放した赤い宝刀を拾い上げた。白々しい月光は刀身に移り込み、斑一つない美しい白銀に染め上がった。
「まあ、これで互角ってもんだ」ピピンはコルキアの直剣を拾い上げ、目に涙を浮かべながら強がった。
「心置きなくやれる」
カガンには、もはやこの今まで一度とて欠けたことのない曲刀を振れるだけの体力がろくに残っていなかった。彼は、一振りで男を仕留める必要があった。
ピピンもそれを知っていた。男は足を引きずりながら、半ば不用意に近づき、剣を振り回した。
カガンは必死でそれをいなした。右手の腕力だけで剣を弾き、右腕には浅い傷が何度もできた。しかし、明らかな隙はあった。右足で踏ん張れないために、返す刀の剣筋がまるでおぼつかないのだ。時機は二度に一度。彼は杭の埋められた森に追いやられていた。
彼は男に曲刀を投げつけて、返す刃を右肩の骨で受け、仰け反ったピピンに頭突きを食らわせた。
鼻をへこませたピピンは丘の斜面に倒れ込み、カガンは痛みにもがく男に馬乗りになって喉元に剣を突きつけた。
「俺ぁ、お前を一度見逃してやったじゃねぇか! 頼む、カガン様よぉ」
ピピンは泣き出した。
「悪いな、ピピン」彼は、深々と突き刺した。
その夜、雨が降っていたのを彼は覚えていた。燻った煙の臭いのする雨だった。
『のろま』と蔑まれていた老人は、馬に乗れなかった彼に鐙を作り、乗馬を教えた。やせ細り、骨と皮だけになった老人にはもはや馬に乗れるほどの力はなく、遊牧民としての暮らしぶりを教える代わりに、各地の文字や伝承を彼に伝えた。彼は老人の話が好きだったが、老人はいつもその話の終わり際に自分が何千年もの間生きているのだと嘯いて、彼を呆れさせた。
彼は老人の奴隷であった女に惚れていた。快活で、透き通るような肌で、見たことのない鮮やかな赤髪の少女だった。彼女はいつも老人の側にいて、老人が立ち上がったり歩いたりするときにはすぐに老人の体を支えた。老人はいつも密会を開いては、彼女に根掘り葉掘りと故郷の様子を語らせた。彼女はいつも家族の話を話すときには悲しそうにして、老人はそれに気づかないで好奇心に任せて彼女を責め立てた。老人は一度ばかりか何度も彼女を泣かせた。それにもかかわらず、彼女は老人との暮らしが好きで、いつもの快活な笑顔を絶やさなかった。
『あの爺の何がいいんだ?』彼はある日言った。
『爺さんはいい人だよ』彼女は言った。『今までのご主人様の中ではね』
『でも、本当に話したくないのなら、いやって言えばいいんだ。爺は怒鳴るけど弱いから。反対にぶちのめしてやればいい。俺がやってやろうか?』
彼女は笑った。日の落ちた無窮の夜空の下で、彼女は柔らかな笑い声を抑えた。
『それじゃあ、今まで、私が味わった屈辱を君に話してあげる。君にだけだ。そしたら、きっと、爺さんを好きになるよ』
彼女は意地悪く笑みを見せて、話し始め、ありありと話し、憎しみに頬を歪めて、終いに泣き出した。
彼は彼女を抱き寄せて、冷たい頬に頬を押し付けた。彼女は涙に濡れて張り付く頬を彼に押し付け、感情の昂りに任せて無遠慮に力を込めた。
『君だったら、どれだけよかったことか』彼女は震えて、言った。『今まで、こんな私を慰めようとしてくれた人は一人もいない』
『俺だったらそんなことはしない』彼は言った。『今からでも俺の物になってくれ』
彼女は痛いほどに彼を抱きしめて、咽び泣いた。
『私を買って』彼女はやっとのことで言い放った。




