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20-約束の日

 カガンは夢を見ていた。


 冷たく、暗く、薄くかかった霧で湿った墓地だった。

 『墓守』や『亀』と呼ばれた、背むしで指の細長い年老いた男が早朝にどこかへ出かけた。

 彼は、老人の後を追って馬小屋を出た。馬の足元には糞と、馬具が転がっていた。


(じじい)!』彼は言った。『忘れものだ!』

 彼は地面にこんもりと盛り上がったいくつかの墓を縫うように避けながら走って、右手で掴んでいたものを、霧の中見通せるよう、背伸びをしながら高く掲げた。

 彼はそれの重さや感触から、それが馬具だと思っていた。

 老人はそれを受け取った。老人はそれを掴み上げて、眉を顰めながらまじまじと見た。そして、それに飽きて墓の上に投げ出した。

 突端に、焼けた人の、甘く、香ばしい匂いが鼻腔にびっしりと張り付いた。

 それは少女の足首に変わった。




 カガンは、檻の外から差し出された女の細い手を掴んで、胸の前に抱き寄せた。

 ニーナは鉄の檻に手を伸ばし、彼の頬を優しく撫でた。


「カガン様、カガン様」女は、優しく男を揺り動かした。「起きてください」


「ニーナ」彼は爛々とした松明に目を細め、言った。

 彼女は興奮しきった様子で、頬を赤く染め、目を光らせ、まるで得意げな少女のようだった。


「カガン様! とうとうこの日が来ました! さあ、耳を澄ませてください」


 彼は言われた通り、周囲の音に耳を傾けた。上の階があわただしく、怒声や叫び声が響いていた。


「始まったのか」彼は起き上がった。彼の心臓は、ずきずきと激しく脈打った。


「ええ、そうです! 始まったのです!」彼女は嬉しそうに言うと、松明の明かりの元で手際よく鍵を開いた。

 鉄の檻に映った明かりでさえも彼には苦痛だったにもかかわらず、彼女は松明を檻に近づけた。

「今、開けますね」


 彼女は松明を投げ捨てて、カガンにあの弓を渡した。

 彼の戦士の姿を見て笑みを浮かべると、堪らなくなったのか飛びつき、締め上げるように、冷えた毛皮の上から抱きしめた。

 彼女は彼の右手を両手で包み込み、あまりの冷たさに驚きの声を上げた。

「弓は絞れますか? 手綱は握れますか?」


「大丈夫だ」カガンは言った。


「そうだ。あなたが握れるようになるまで私が温めます」

 彼女はカガンの右手を取って自分の首元に押し当て、体を小さく震わせながら彼の手首に頬を押し当てた。

 脈がとくとくと激しく波打っていた。


 カガンは、思わず手を引いた。驚いた様子の彼女に言い訳するように言った。

「今は急ごう」カガンは、彼女にキスをした。


 彼女は満面の笑みを見せた。「はい!」



 彼らは階段を上がり、玉座の間の扉の前に押し寄せた兵士たちを認めた。鎖帷子の兵士たちの内の何人かは鎖帷子の上にローブを纏った貴族風の出で立ちで、兵士たちの後ろで何か怒鳴っていた。

 彼女は彼の右手を温めようと、両手で握った。

「アーカスの兵士か?」彼は言った。


「いいえ、アーカス様の兵は城門でコルキア兵の侵入を食い止めています。ここに居るのは全員西側の貴族の兵士です。ほら、明らかに兵隊ではない人たちがいるでしょう? あの人たちです」


「アーカス様のお部屋からなら、あの部屋に入れるはずです」彼女は、カガンの手を引いた。


 廊下では、逃げ遅れた召使たちが兵士に殺され、犯されていた。大して貴重でもない調度は破壊されて、粉々になって部屋から投げ出されていた。廊下に満ちる血の匂いや阿鼻叫喚の声に、彼は懐かしい戦場の空気を感じながら違和感を覚えた。


「なんだ。こいつらもこんなことをするのか」彼は自分でも分からない失望を幾分か感じた。「自国の民であっても所詮こんなものか」


「私たちに見下されていると思っているのでしょうね」

 ニーナは軽蔑するように、目の前で犯されまいと必死に抵抗している召使の女を見ていた。


 カガンは、女に馬乗りになっていた男を射殺した。女は恐怖の声もあげずに、しな垂れかかった死体の下から這い出ると、ぼろ同然になった服の切れ端で体を覆い、呆然と立ち尽くした。女は、傷口から服に滲み出る血を静かに見つめていた。


「女」カガンは命令した。「来い」


 彼女は目に涙を浮かべながらも静かに頷いて、彼らと共にアーカスの書斎に入った。



 彼は書棚を横倒しにして部屋の戸を塞ぐと、樽のワインを口に含んだ。彼はあまりワインのような渋く強い酒が好きではなかったが、久々の酒だと思うと、生き返ったような気持ちになった。


「カガン様、この窓から女王様のお部屋に入れるはずです」

 彼女は、いつぞやアーカスが暗殺を依頼した時と同じ窓を示した。

「ご無事でいてください」

 彼女は懇願するように言った。まるで、無事でいられるかどうかは彼の裁量次第であるかのように。


「もちろんだ。分かってる」彼は言い聞かせる親のように言うと、あの召使の方を見た。

「おい、女。これを使え」彼は床に座り込んだ召使に毛皮を被せた。女はすぐにそれを掴み手繰り寄せると、体を震わせながらしっかりと体を覆った。

「女。ニーナを見ておいてくれ」

 彼は懇願するように召使を見た。


 彼女は声を発そうとして唇を震わせ、できないと知ると控えめに頷いた。


 彼は笑みを浮かべて、金のグラスを召使に渡した。

「褒美だ。()っとけ」



「誰が指揮してる?」彼は窓際に立ち、ニーナに言った。


 外は、城下の明かりで正確な時刻が分からなかったが、おそらく夕刻から夜の帳が下り始めたころで、城下の明かりの届かない砦の外に目を凝らしてみると、丘の輪郭が微かに白んだトワイライトに際立って見えた。

 砦の内部の明かりは何かが燃えているためで、自国の兵士たちは住宅や大通りを燃やし、街中で略奪をしていた。こうすることで、コルキア兵が城内に侵入するのを防いでいるのだと言うことはすぐにわかった。


「わかりません。ですが、レバン様の号令で始まったそうです。ほら、先ほどの兵たちの中にもいましたよ。白髪で、長いひげ、それから、眼帯をつけていました。先代の将軍だったそうですが、今では隠居された西側貴族の一人です」

 彼女は不安そうにカガンを見上げて、たまらず抱き着いた。

「どうか、約束を忘れないでください。絶対に死んではいけませんよ」


「ああ。楽勝だ。そっちの方こそ死ぬな」



 彼はあのいつも開けっ放しだったシアンの部屋の窓から忍び込んだ。


 まだ微かに暖かいシルクの寝具。石の大きな机に投げ出されたペン。窓から強く吹きつける風のせいで無機質な部屋の天井には煙が入り込み、煌々たる火事を鈍い色で映し、それが囲炉裏の中で(くすぶ)った燠を想起させた。

 まだ幼い彼は囲炉裏の熾火が再び独りでに燃え盛り、純然とした煌々たる輝きを取り戻すのを立ち尽くして見ていた。


 壁に向かっている石の小さな机に投げ出された、見たことのない宝石が埋め込まれた豪華な緑のブレスレットを彼は手に取った。


 さては、あの女、直前まで宝石なんて見てやがったな。


 彼は、奴らが来るまでに部屋中をくまなく探した。以前はなかったベッドの下の床の木目の違和感を頼りに床板を外すと、ジャラジャラとなる銀の箱が出てきた。これが財宝に違いないと彼は確信した。


 彼は部屋を出て、広間へと向かった。


 女王の貴族たち、衛兵、玉座の側で座るレオン、そしてアレクシア、玉座に座るシアン。彼らは規則的に響く扉を叩きつける音、軋む音や、向こうから聞こえる罵声に注意を向けていた。


 シアンは以前見た就寝用の薄いシルクのローブに身を包んで、鼓動する扉のただ一点に目をやったまま強張った唇を固く結んでいた。


 カガンは、玉座の横に立ち、彼女に向けて弓を引いた。


「扉を開けろ!」カガンは叫んだ。


 その瞬間、部屋の松明は燃え盛る勢いを失くし、部屋中の時が止まったみたいに誰も動けなくなった。

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