九十四話
「……ついに今年は受験生で、受験勉強が始まるんだ……」
そっと呟くと一気に緊張感が胸に溢れかえった。中学三年生の時も同じように緊張でがんじがらめになったが、一人暮らしをするという思いも含まれているので、さらに今回の方が不安が大きかった。そして何より、卒業したらみんなとバラバラになってしまうという寂しさと切なさ。特に、蓮とはここまで距離を縮められたのに、全て水の泡になるのは悲しすぎる。憧れの柚希とさよならもしたくないし、圭麻とも付き合っていきたい。だが、それは叶えられないのだ。すずめに人生があるように、柚希、蓮、圭麻にもそれぞれ人生がある。いつかは離れ離れになるのは仕方ない。もちろん、そんなことはすでにわかってるし、そばにいたいとわがままを叫んだって状況は変わらない。成長したら、もっと気が合う男性に出会うかもしれないし、その人と結婚して子供を産める未来が待っているかもしれない。
「……あたしって、何になりたいんだろ……」
蓮に、外科医になればいいのにと偉そうな言葉をぶつけたが、すずめも将来の夢について全く考えていない。蓮にあれこれ言う前に、自分のやりたいことを見つけるべきだ。とりあえず幸せに暮らしていれば、ではなく、きっぱりと決定しなくては。
「あたしのやりたいことって……」
そっと顔を上げると、カレンダーが目に入った。近寄り、ぱらぱらとめくってみる。そして二月十四日で全身が固まった。バレンタインデーでもあり、柚希の誕生日でもある。今年もチョコを渡せるかと想像していると、蓮の声が耳の奥で響いた。
「告白するんだよ。中学生からずっと好きだったんだろ。きっと喜ぶんじゃねえの」
「こく……はく……。あたしが、柚希くんに……」
「いいじゃねえか。当たって砕けろだ。それとも、何もしないで片想いのまま諦めるのか?」
諦めたくはなかった。片思いなままで別れるなんて、絶対に嫌だ。誕生日プレゼントとして、すずめが告白したら、柚希はどう返事するだろう。苦笑して断られ、生まれて初めての恋が失恋に終わり最悪のバレンタインデーになる可能性だってある。
だが、もう時間は残されていない。受験勉強が始まったら告白する暇なんてないし、柚希も迷惑だ。クリスマスパーティーで伝えられなかった言葉を誕生日に伝える。それがすずめのやりたいことで、やるべきことだ。次は絶対に失敗できない。フラれても、ぎくしゃくな関係になっても構わない。とにかく好きだと話す。
「……よ、よし。告白するんだ……」
はあ、と息を吐き、カレンダーの二月十四日の部分に『柚希くんに告白』とペンで書いた。
バレンタインの甘い雰囲気に乗せられて、少しは勇気も出るかもしれない。柚希と恋人同士になれるなんて奇跡でも起きない限りありえないが未来は誰にもわからないし、もしかしたらという淡い期待も浮かんだ。結果はどうであれ、告白をすれば蓮から褒められる。やらないで後悔するより、やって後悔する方がずっといい。
夜、風呂から上がると蓮に電話をした。なかなか出てはくれず繰り返しかけると、イラついた声が耳に飛び込んだ。
「しつこいな……」
「すぐに出ない方が悪いんだよ。ところで、バレンタインデーが柚希くんの誕生日だって話したっけ?」
「いや知らねえけど。もし言われても、他人の誕生日なんて覚えてないし」
「あたし、誕生日に柚希くんに告白するって決めたの。クリスマスパーティーでだめだったから、誕生日なら大丈夫かなって。もう時間がないもん」
「そうか。確かに誕生日は特別な日だし、告白にちょうどいいな」
「おまけにバレンタインデーでもあるでしょ? 素人が作ったチョコより、ずっと告白の方が嬉しいよね?」
「まあ、好きな奴ならな。別に何とも思ってない奴から告白されたんじゃ、嬉しくはねえよ」
「そ……そうなんだよね……。柚希くんが、あたしをどう見てるのかが不安なの。冷たくフッたりはしないだろうけど、ごめんって苦笑いされるのも辛いし……」
「たぶんフラれはしないだろ。ただ、大学生になったら恋人同士になろうとか、高校卒業するまで待ってとか、そういうことは話すかもしれない。あの金好き蛇女が裏で見張ってるしな」
「ああ……。蛇女ね。バレたら、どんな酷い目に遭うかわからないもんね。あいつさえいなければ、柚希くんは幸せになれるのに」
子供想いで優しい薫子が亡くなってしまった悲しさが、胸に溢れてくる。すぐに落ち込むすずめを励ますためか、蓮は少し明るい口調で話した。
「これから幸せを探していけばいいだろ。願っても母は生き返らないんだし。泣いたりするなよ。泣くと疲れるぞ」
「泣かないよ。そんなにあたし泣き虫じゃないよ」
「どうかな。俺は泣き虫だって思ってるけど」
「違うよ。と、とにかく、告白するからね」
ふと弱気になって声が震えたが、しっかりと言い切った。蓮も安心したのか、そのまま電話を切った。ふう、と息を吐き、携帯を机に乗せてベッドに寝っ転がった。
「あたし、もし柚希くんと恋人同士になれたらどうしよう」
きっと毎日が笑顔で溢れるはずだ。イケメン王子に愛されて、デートをしたりキスをしたり。妄想するだけで体が火照って興奮してしまう。もちろん、それほどうまくいかないだろうが……。
「なれたらいいなあ……」
そっと呟き目を閉じると、いつの間にか眠っていた。蓮の声は、すずめを癒す効果があるらしい。ちょっと低めで掠れたハスキーボイスによって、久しぶりに熟睡した。
翌日は朝から曇っていて、気分がどんよりとした。用事もないため部屋に引きこもり、エミと携帯でおしゃべりをした。しかし柚希に告白するのは黙り、無意識に隠していた。余計な心配をかけたくないし、いちいちエミにまで話すこともないと考えたのだ。なぜか蓮には、自分の心の中や胸の奥を見せられる。泣き顔も怒った顔も、蓮にだけは平気で晒せられる。家族よりも親しい存在なのだ。だから、蓮のマンションに無防備で眠れるし、風呂にも入れる。蓮は女の子に興味がない性格なのもあるが、異性なのにここまで信用できるのは蓮だけだ。
「すずめ? どうしたの?」
突然エミに聞かれ、はっと我に返った。
「え?」
「急に黙っちゃって。悩み事でもあるの?」
「な、悩み事なんてないよ。ただ」
そこまで言って口を閉じた。蓮の姿が頭にあるとエミにバラせなかった。こうやって蓮と関わっているのを知ったら、エミはやめた方がいいと必ず言ってくるはずだ。もし、少しは優しいところもあるんだよと話したって、実際には見てないのだから言い訳にしか聞こえない。
「ただ……。何?」
「ただ、その……。受験がちょっと心配でね。えへへ……」
「ああ。確かに受験はね。あたしもまだ志望校決めてないや。どうなっちゃうのかな?」
「高校が一緒だったから、大学も同じ学校にしたいけど。さすがに無理かな」
「すずめとしては、あたしより柚希と同じ学校がいいんじゃないの? それに、あたしもしかしたら大学には行かないで、就活するかもしれないし」
「え? 就活? どんなお仕事がしたいの?」
「海外で働いてみたいのよ。だから陽ノ岡で英語べらべらにしようって考えたの。仕事は、まだ特には」
「海外かあ。あたしにはとても想像できない大きな夢だね。エミって本当に大人っぽくてすごいね」
「そんなことないって。何となくっていう曖昧な夢だし、どこの国に行くのかもわかってないんだから」
「それでもかっこいいよ。いつかその夢、叶うといいね」
「うん。すずめは、将来の夢はないの?」
聞かれると思って、すでに答えは用意していた。
「全然決められないよ。そもそも、あたしって得意なものとか、みんなから尊敬される技も持ってないじゃん。平凡な普通の女だから、平凡な普通の夢しか浮かばないの」
「自分を平凡だとか思っちゃだめだよ。すずめには、びっくりするほど素晴らしい良さがあるんだよ。すずめ自身は感じられないだろうけど」
「あたしに良さなんか」
「柚希に告白は? しないの?」
はっと驚いて目を丸くした。エミは固い声で、さらに続ける。
「柚希のこと好きなんでしょ? じゃあ勇気を出して告白するべきだよ。すずめが柚希の彼女になったら、あたしも嬉しいし。フラれたとしても、それはそれでいい経験になるよ」
「やらないで後悔するより、やって後悔する方がいいんだもんね」
「そうだよ。すずめ。あたしも頑張って就活するから、すずめも頑張って告白して。お互いに幸せを掴み取ろうよ」
「う、うん……。告白、生まれて初めてだよ。誰かに好きだって伝えるなんて。しかも相手はイケメン王子。緊張しちゃう」
「みんな、そうやって不安になりながら恋人作りしてるんだよ。すずめだけじゃない。たとえ結果が良くなかったとしても、前向きに考えて落ち込まないんだよ」
エミの言葉は、すずめの胸にぐさりと刺さった。気持ちは石のように固まり、「わかった」としっかりと答えた。




