表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
87/146

八十七話

 日記は雪のように白く、表紙には天使が描かれていた。これだけで薫子が心優しく暖かな人だったと、すずめには伝わった。一ページをめくると、びっしりと文字が連なっている。少し丸っこい可愛らしい文字だ。

『やっと、やっと私にも赤ちゃんがやって来るんだわ』

 やっと、ということは、なかなか妊娠できなかったのかもしれない。下の文章にも目を移動させる。

『男の子かしら。女の子かしら。名前はどうしようかな。ママとパパはセンスが古いから、私が付けてあげなきゃ』

「柚希って、薫子さんが付けてくれたんだね」

 囁くと、柚希も頷いた。

「そうみたいだね……。誰が付けてくれたのか知らなかったよ」

 ページをめくると、同じように文章が書かれている。薫子は日記を毎日つける性格ではなく、いきなり日にちが二週間も後になっていた。

『今日は、ママとパパからベビー服とベビーベッドをもらいました。可愛い赤ちゃん、よかったわね。早く名前もプレゼントしてあげたいわ』

 出産のわくわくがいっぱいで、幸せに満ちあふれているのだろう。痛みも辛さも、この時はそれほど大きくないのかもしれない。三ページ目で、やっと名前が現れた。

『子供は男の子だと先生から教えてもらって、名前はユズキに決まり。みんな賛成してくれたし、きっとユズキも気に入ってくれるわ。ユズキくん。私の宝物、ユズキくん。お母さんになるのって、こんな気持ちなのね』

「……薫子さん、柚希くんを心の底から愛してたんだね。まるで女神様みたいなイメージだね」

「お嬢様だから、しゃべり方も穏やかだしね」

 それからしばらくページをめくってみたが、柚希がどんどん成長していく様子が細かく記されていた。それもまた飛び飛びで、一カ月以上も間が空いている部分もあった。しかし、突然その文章に陰りが浮かび始める。

『病院の先生から、出産は危険と言われてしまった。痛みに耐えられる力が私にはなくて、産めたとしても私が生きられないなんて。私は、柚希を育てられないの?』

『子供をおろすなんて私にはできないわ。絶対に産んであげたい。そして私は柚希を大事に護って育てるのよ。私の子なんだもの。誰にも渡したくないわ』

『大丈夫。私は柚希と暮らしていける。私が死ぬわけないでしょう。子供は母親がいなかったらどうやって生きていくの? 離れ離れなんてありえないわ』

 内容が深刻になっていく。始めよりも文章の数が減り、焦りと不安でいっぱいな薫子の想いが届いた。

『どうしよう。もうすぐ予定日なのに、私の病気は悪化するばかり。このままでは先生の話した通りになってしまう。柚希と一緒に暮らせなくなってしまう。どうしたらいいの。誰か教えて』

『神様、どうか私に柚希をください。お願いします。柚希がいれば、もう何もいりません。どうか願いを叶えてください。お願いします』

『ごめんね。柚希。ママが体が弱くて、もしかしたら一緒に暮らせないかもしれないの。本当にごめんね。病気さえなければ、ずっとずっとそばにいてあげられたのに。本当にごめんなさい』

 そして、そのページから何も書かれていなかった。薫子が柚希を産んだ後に痛みに耐えきれず亡くなったのが、その白紙のページで伝わった。

 となりに座っている柚希がぶるぶると震えているのに気が付いた。目に手を当てて泣いている。すずめもぽろぽろと涙を流し、そっと囁いた。

「柚希くん、泣かないで。柚希くんが泣いてる姿なんて、あたし見たくない……」

「ごめん。でも……。こんなのあんまりじゃないか。子供は産まれたけど母親は死ぬなんて……」

「寂しいよね。酷すぎると思うよ。だけど、過去は戻らないし、薫子さんは生き返らないよ。いくら願っても」

「もしかしたら、どこかで生きてるんじゃないかって期待してたんだ。生きてたら、あの屋敷から逃げて本当の母さんと暮らせるだろうって」

 すずめもそれを願っていた。とにかくあの二人から柚希を引き離してあげたい。しかし薫子は亡くなってしまった。またあの窮屈な世界で傷つかなくてはいけないのか。

「……ねえ。薫子さんの写真はないの?」

 聞くと、柚希は首を横に振った。あの母親が燃やして捨ててしまった中には、薫子が写ったものもあったかもしれない。柚希がお腹の中にいる時や、結婚式の記念に撮った写真だって何枚かはある。顔も見れず声も聞けず、ただ泣くことしかできない柚希が哀れで仕方なかった。薫子だって、天国でずっと泣き続けているだろう。後に母親になったのが歪んだ心を持つ蛇みたいな人物で、この世に神様なんていないと確信した。しばらくして泣き止むと、柚希は日記を紙袋にしまった。

「びっくりさせちゃったね。ごめんね。男なのに泣き虫でだめだよな」

「泣きたい時は大声で泣いた方がいいよ。あたしでよければ、愚痴も付き合うよ」

「すずめちゃんに愚痴なんて吐けないよ。と言いながら、よくネガティブな話してるけど」

「遠慮しないで。むしろ我慢して落ち込んでるより、一気に愚痴ってすっきりしちゃうんだよ。柚希くんは何でもかんでもため込み過ぎだよ」

「そっか……。ありがとう。自分のこと何にも気づいてないね。やっぱりだめ人間だ」

 ははは……と苦笑する柚希と並んで図書館から出た。




 別れる前に、薫子について蓮と圭麻に話してもいいか聞いてみた。すぐに「構わないよ」と返事をもらい、家に帰るとまず圭麻に電話をかけた。圭麻は黙り答えが見つからないようだった。

「でも、もう泣き止んでるし、一人でも大丈夫そうだったよ」

 慌てて付け足すと、ほっと息を吐き「そうなんだ」と安心していた。

「それにしても可哀想だよな。再婚した母親も優しい性格だったらよかったのに」

 同じく母を失くしている圭麻は残念そうに呟いた。悔しそうな口調に、圭麻の思いやりの深さを感じる。

「あたしも一緒だよ。お父さんも柚希くんのために結婚相手を選んであげれば」

「選ぶというか、無理矢理その女が結婚させてくれってお願いしてきたんじゃないの?」

「え?」

「お金大好きなんだよ? 有名会社の夫人になりたくて、ありとあらゆる作戦を使って結婚に持って行ったんだろ。薫子って名前を知ってるのも、もしかしたら薫子さんが夫人になったのをずっと妬んでたのかもしれない。柚希を傷つけてるのも薫子さんが嫌いだからだよ」

 言われてみれば、現在の柚希の母親はそれほど美しくもないし、アクセサリーや化粧を除けば知世よりもずっと老けている。奇跡的に桃花は美少女で産まれたが、外見だけで内面は失礼でわがままな礼儀のなっていない子供だ。

「じゃあ、お母さんは薫子さんと知り合いだったってこと? 日記には書かれてなかったけど」

「薫子さんも、母さんが嫌いだったんだよ。嫌いな奴の話をわざわざ日記に残すのは珍しくない?」

 『誰にも渡したくないわ』というのは、まさに大嫌いな女に柚希を奪われたくないという意味だ。だが、その願いは叶わなかった。

「それもそうか……。薫子さんは息子も命も失って、本当に辛かっただろうね」

 切なさと空しさで胸が潰れそうになった。つい落ち込んでしまうすずめを励ますように、圭麻は話した。

「だけど、これから幸せを見つけられるよ。今まで散々苦しい目に遭ってきたんだ。大人になって素敵な彼女と出会って、可愛い子供を抱っこできるよ」

「うん。あたしもそう信じてる」

 しっかりと答え、そこで電話を切った。

 蓮にも報告しようと電話をかけたが、なかなか出てくれない。二度三度と繰り返すと、少しイラついた声が耳に入った。

「……本当にお前はしつこい奴だなー。何の用だよ?」

「さっさと出てくれれば、しつこくかけないよ。それより、柚希くんのお母さんについて話があるの」

 圭麻にしたように全てを打ち明けた。ふう、とため息を吐き、蓮は即答した。

「そうか。とりあえず謎が解けてよかったじゃないか」

「よくないよ。薫子さん、死んじゃって……。どこがいいのよ?」

「そりゃあ、今の母親は金好き蛇女だしな。それでも薫子っていう名前や過去がわかっただけでもマシだろ」

「金好き蛇女?」

 まさにあの母親にふさわしいニックネームだと感心した。

「すごくぴったりなニックネーム作ったね。よし、今日からあの母親は金好き蛇女って呼ぼう」

「母親失格なやつをお母さんなんて呼んだらいけないだろ。金好き蛇女でいいんだよ」

 意外にも他人についてよく考えている蓮に驚いた。とはいえ柚希には聞かせられない。このニックネームは、蓮と圭麻との会話だけでしか使わないと決めた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ