七十九話
走って帰ったが、知世は「おかえり」とだけ言い、昨夜はどこに泊まったのかと質問はしてこなかった。エミとプールに行くと伝えたので、たぶんエミの家に泊まらせてもらったのだろうと考えているのだろう。言い訳や誤魔化しをするのは嫌なため、ほっと安心した。しかし別の質問をされてしまった。
「ねえ、水着……忘れてたよ」
ぎくりとし、冷や汗を隠しながらも答えた。
「そうなの。だからエミに貸してもらっちゃった」
「エミちゃんに? すずめとはかなり体型が違うと思うけど」
「一応あたしも胸はあるんだよ。もう……馬鹿にしてっ」
むっとすると、知世はため息を吐いた。
「……あんまりエミちゃんに頼るのはやめなさい。もしかしたら迷惑かけてるかもしれないでしょ? すずめがそうやって近くにいたら彼氏もできないし」
「エミは男の子に興味がないの。始めから彼氏はいらないって」
「そんなことないよ。年頃の女の子なんだもの。恋をしたいって願ってるはずだよ。いつもいつもすずめの世話ばっかりさせられて、仕方なくそう決めたのかもよ? これからは家に泊まるのは禁止。エミちゃんが可哀想でしょ?」
この言葉は、すずめの胸に重く響いた。まさか、志望校を陽ノ岡にしたのは、柚希が理由だったのでは。すずめと同じ気持ちだったが、自分は身を引いて親友に初恋の人を譲ろうと諦めたのではないか。そもそも将来は海外で働きたいとエミが話したこともない。英語が得意というわけでもないし、もし柚希に惚れていたら……。
「エミとライバルになっちゃうっ」
居ても立っても居られなくなり、急いで部屋に飛び込んで電話をかけた。すぐにエミの声が耳に入る。
「すずめ? どうしたの?」
「あ、あのね……。エミって、柚希くんが好きなの?」
「え? 柚希?」
「う、うん……。本当は柚希くんに惚れてるんじゃないの? でも、あたしに譲ろうって諦めて……」
少し涙が混じった。ははは、と軽く笑い、エミは即答した。
「なに馬鹿な妄想してるのよ。あたしは男に興味ないって」
「でもエミってすっごくおしゃれで可愛い格好してるでしょ? それって恋人が欲しいって意味じゃないの?」
もう一度繰り返す。するとエミの口調が固くなった。低くて暗い声だ。
「……実は、あたしね、すずめに内緒で付き合ってた彼氏がいるんだ」
「えっ」
「ずっと秘密にしててごめん。だけど、その彼とは離れ離れになっちゃったの。離れ離れというか……。要するに捨てられたの」
「嘘? こんなに美人のエミが?」
「俺は髪の長い子が好きだってね。髪を伸ばせばまた付き合ってやってもいいぜって偉そうな態度とられて頭にきて、二度とあんたとなんか付き合わないわって怒鳴り散らした。どうせ男なんかろくな奴がいないって知ったの」
「そんな出来事が……。それで興味がなくなったのね」
「そう。まあ、柚希は優しくてかっこいいとは思うけどね。でも自分が幸せになるより、すずめが幸せになった方が嬉しいんだ。すずめは、あたしの妹だもん。ぜひともすずめには素敵な彼氏が現れて、愛されてもらいたいな」
親友の暖かな言葉に、ぽろぽろと涙が溢れた。すずめもエミを姉として慕っている。一人っ子のすずめにとって、エミはかけがえのない存在なのだ。
「すずめ? 泣いてるの?」
「いや……。別に……」
「女は笑顔だよ。泣き顔ばっかり見せてたら、全然モテないよ。ね、柚希とラブラブになりたいんでしょ? なら、にこにこしなさい」
「ありがとう……。励ましてくれて……」
ごしごしと目をこすり、電話を切った。エミとライバルにならずに済んでよかった、と安心した。
「エミに彼氏がいたなんて……」
やはり美人だし彼氏はできるのだ。しかしショートヘアーだったせいで捨てられ、おまけに酷い言われよう。確かに怒りたくもなる。すずめも蓮に馬鹿にされて、何度も怒鳴っている。落ち込んだり傷つけられてばかりだ。普通なら、そんな奴とは目も合わせたくないだろう。口も聞きたくないし、さっさと関係を断とうとするはずだ。けれどなぜかすずめは蓮を追いかけている。仲良くなれるわけがないとわかっているのに、毎日どこにいるのだろうと探している。柚希や圭麻という穏やかな王子とだけ親しくすれば、悩みも一つも生まれないが、わざと傷つきに行っている。蓮に馬鹿だ変だと呆れられる理由が何となく伝わった。
「あ、そうだ」
先ほどの知世の言葉を思い出した。すぐに柚希に電話をかける。これからは家に泊まれないと話すと、残念そうな声が返ってきた。
「そっか……。夏休みの宿題はできるよね?」
「宿題はできるよ。平気だよ」
「すずめちゃんに急接近したかったんだけどなあ……。またいつかは泊まりに来れるのかな?」
「いつかはね」
「よかった。ならいいんだ」
ほっとした柚希の返事を聞き電話を切ると、次は圭麻に電話をかけた。同じように彼も寂しそうな口調に変わった。
「しょうがないね。大事な娘だからね」
「ごめんね。あたしがもっと上手い言い訳をすれば、こんなことには」
「ヒナコは悪くないよ。それにお母さんが子供想いで優しくて、ヒナコは幸せだね」
「ちょっと心配性だけどね。代わりに、いっぱい遊びに行こうよ」
「うん。流那も喜ぶよ」
常に頭の中には流那が浮かんでいるのだなと直感した。おしゃべりをしていると必ず流那の名前があがる。すっかり父親だなと無意識に笑顔が生まれた。
そして最後に蓮に電話をかけた。しかしなかなか出てはくれず、二度三度と繰り返したが結局繋がらなかった。寝ているのかと諦めたが、実際に会って伝えればいいと考えた。バッグも持たずに蓮のマンションへ走って行く。インターフォンを押すと、二十分ほど経ってから蓮が現れた。
「何だよ」
「どうして電話に出てくれないのよ」
「やっぱりお前だったんだな。ずっと無視してたけどあまりにもしつこくて、めちゃくちゃイライラしたぞ」
「出ない方が悪いの。……あのね、お母さんに言われて、あたし誰の家にも泊まれなくなっちゃったからね」
「は?」
「柚希くんと圭麻くんにも教えたよ。だから一応、蓮くんにも報告ってことで」
「別に俺には関係ないだろ。それより、また天内の家で無防備に寝たのか」
「流那ちゃんがいるし、二度とエッチはしないって約束してるし、心配しなくても大丈夫だよ。蓮くんは、ずっと圭麻くんをエロ男って疑ってるけど、全然そんなことないんだから」
「妊娠しても知らねえぞ。後悔したくないなら、信用するのはやめろよ」
「だから違うんだってば」
とはいえ、キスをされたり抱き締められたり、圭麻にはどきどきさせられっぱなしだ。そして迫られても逃げるどころか受け入れてしまう自分もいる。流那に嘘をついて、すっかり恋人同士気取りなのだ。
「とにかく、お泊りは完全に禁止になったからね。蓮くんのマンションにも泊まらないよ」
「というか、今までのお前がおかしかったんだろ。二日連続で男の部屋に寝るなんて、普通の女はしないぞ」
はっとした。やはりすずめの行動はよくなかったのだ。子供じゃないんだからそれくらいわかるだろと蓮は話していたが、すずめは全く意味がわかっていなかった。
「……そうだよね。大体、お母さんに嘘つくのもだめだし、何か起きてからじゃ遅いもんね」
「ずっと前から俺が忠告してきたことだぞ。天内と二人きりになるのは危ないし、気を付けろって」
ふう、と息を吐いて蓮は目を閉じた。呆れられていると恥ずかしくなり、すずめは俯いた。
「ごめんね。蓮くんは正しいことを教えてくれてたのに、あたし……ちゃんと聞かなくて……。でも、もうお母さんにも決められたし、どんなに泣かれてもお願いされても、自分の家に帰るよ」
「よし、ちゃんと守れよ。母さんに心配かけないように」
ふと、ある不思議な気持ちが浮かんだ。真っ直ぐ蓮に質問する。
「蓮くんって、よくお母さんに心配かけるなって注意するよね? 何で?」
涙で目が赤くなった時、帰るのが遅くなった時などに、親不孝だと叱られた。自分は虐待をされて傷つけられたのに、なぜ母親を大事にするべきという思いが生まれるのか。むしろ仕返ししたくなるのではないか。
「そりゃあ、俺の場合は恨んでるし、死んでも許せねえよ。でもお前は愛情の深い母親なんだろ。そういう親は大切にしろってこと」
そういえば、知世は蓮のために弁当を作っている。そのお礼もあって、こういった感情が沸くのかもしれない。こくりと頷いて、すずめも答えた。
「そっか。そうだよね。一生懸命ここまで育ててくれたんだもんね。迷惑かけたらいけないよね」
「特に女は危ないしな。お前も痛い目に遭いたくないだろ」
「うん。ちょっと残念だけど、お泊りは絶対にやめるね」
すると蓮が頭を撫でてくれた。よしよしと褒めているみたいだ。自分が従順で素直な性格でよかったと嬉しくなった。




