七十八話
「ヒナコ、おまたせ」
後ろから呼ばれ、すぐに振り返った。流那を抱っこした圭麻が歩いてきた。
「流那ちゃん、寝てるの?」
「着替えてる途中で。実は、またヒナちゃんに会えるって楽しみでいっぱいで、あんまり睡眠とってなかったらしくてさ。ぐっすり熟睡してるよ」
「そうだったの。すっごく好かれちゃって、あたしも嬉しいなあ……」
「けっこう流那って人見知りするタイプなんだよ。ヒナコのことも人見知りするかなって思ってたら、めちゃくちゃお気に入りになって、俺もほっとしたよ」
「へえ……。蓮くんもお気に入りにしてたけど」
「蓮も?」
「優しいお兄ちゃんって褒めてたよ、前に。ほら、蓮くんに抱っこしてってお願いしてたじゃない」
「そういえば……。でも蓮って優しい奴かな? 冷たいしとっつきにくいし、むしろ距離を置きたくなる奴だと思うんだけど」
「あたしも同じ。何だろう? 子供には蓮くんって優しく見えるのかな? それとも流那ちゃんだけ?」
「うーん……。まあ、今考えても仕方ないし、さっさと帰ろっか」
すずめの手を握り、圭麻は歩き始めた。電車は空いていて、圭麻と並んで座った。流那はずっと夢の中で、無邪気な寝顔にキュンキュンした。
「可愛いなあ。あたしも早く子供産んでみたいよ」
「やっぱり女の子ならそう思うんだね。俺は痛そうだから怖いなって感じだけど」
「あたしだって痛いのは嫌だし怖いよ。大体、彼氏だっていないし。それでも我が子を抱っこしたいなって願ってるの。自分だけの宝物だもん」
「その宝物を傷つける母親もいるけどね」
蓮と柚希の母のことだ。本当に、すずめにも信じられない。しかも超がつくほどのイケメンの息子を可愛がれないなど母親失格だ。
「世の中には、産みたいのに産めない女性だっていっぱいいるのに。もし目障りなら、そういう人に代わりに育ててくれって預ければいいじゃん。そのせいで蓮くん、無口で無表情になっちゃったんだよ。仕事でストレスが溜まったからって、どうして蓮くんに八つ当たりするのよ。関係ない蓮くんに当たらないでほしいよ」
母が優しくて思いやりのある性格だったら、明るくて笑顔が素敵な男子になれたかもしれない。圭麻もうんうんと大きく頷いた。
「その点、柚希は偉いよな。虐待されても、にこにこして礼儀がなってて」
「本当にそう。愚痴も弱音も吐かないし。すごい人だよ」
その時、電車が止まった。駅に降りると、また手を繋いで歩いた。流那は圭麻の広い胸の中で熟睡していた。
そのまま別れると考えていたが、圭麻に誘われて家にお邪魔することにした。相変わらず綺麗で埃ひとつ落ちていないリビングに入り、ソファーに腰かけた。流那もとなりに寝かせた。
「はあ、肩凝ったな……」
ふう、と息を吐きながら圭麻が呟き、すずめは勢いよく立ち上がった。
「大丈夫? どうしたのかな?」
「ずっと流那抱っこしてるからかも? めちゃくちゃ固まってるよ」
「そうなんだ。あたし、揉んであげるよ」
圭麻の背中に回り、ぐいぐいと肩を揉み始めた。確かに固くなっている。
「どう? 力弱いけど」
「気持ちいいよ。何だか、知らないうちに体がじいさんになっちゃってショック……。前は肩凝るなんて一切なかったのに」
「そんなことないよ。まだ圭麻くんは若くてかっこいいよ。たぶん、おじいちゃんになってもかっこいいんじゃない?」
マッサージを続けながら答えると、圭麻は軽い口調で話した。
「ありがとう。ヒナコに褒められると嬉しいよ。これまでいろんな彼女と付き合って、みんなからかっこいいって言われたけど、ヒナコが一番感動する。こんな気持ちになるのは、ヒナコが初めてだ」
そして立ち上がり横に座ると、額にキスをしてきた。ぽっと頬が火照り、うっとりとしてしまう。ここまで愛されているのかと、すずめも嬉しさで胸がいっぱいになる。
「……お腹の痛み、どうなった? よくなったの?」
「もう平気だよ。心配かけてごめんね」
「男は、その痛みがどれだけ辛いのか理解できないからな。今日は無理させて悪かったよ」
「いいの。誘ったのはこっちなんだし、一緒に泳げなくて流那ちゃんに可哀想なことしちゃったよ」
ソファーでぐっすり眠っている流那に視線を向けた。朝まで起きないだろうと判断したのか、圭麻は抱き上げて有那の部屋に連れて行った。すずめと二人きりになりたかったのかもしれない。戻ってくると、すずめの腕を掴んで押し倒した。流那の体温が残るソファーに横たわり、どきどきと緊張する。
「圭麻くん、エ、エッチは」
「しないよ。約束したんだから。でもヒナコとくっ付いてたい」
上から覆い被さるように距離を縮め、さらに焦りが増す。
「ちょ、ちょっと待って……」
口を開くと黙らせるためかキスをされた。触れるだけの柔らかなキスだった。
「ヒナコ……。大好きだよ……。愛してるよ……」
囁きが耳に届く。かっこよすぎて意識を失いかけた。無意識に、すずめも首に手を回しキスをした。
「あたしも。あたしも好き……」
「本当? 俺のこと好き?」
「うん。大好き……」
しばらくその状態で見つめ合い抱き締め合った。完全に二人だけの世界にいたが、ガチャッと小さな音で我に返った。圭麻もはっと身を起こした。音がした方に視線を向けると、目をこすっている流那が立っていた。
「あれ? 圭ちゃんもヒナちゃんも、まだ寝てないの?」
「る、流那。どうしたんだよ。起きちゃったのか?」
「うん。トイレ……」
「そ、そうか。じゃあ俺と一緒に行こう。ヒナコは先に寝てていいよ」
圭麻は軽い口調で返し、うまく誤魔化した。こくりと頷いて、すずめも部屋に入った。
「……あたし、何……してるんだろう……」
小さく呟いた。以前、流那から「圭ちゃんを取らないでね」とお願いされた。圭麻と結婚するのは流那だから、恋人にはならないでほしいと。すずめも大丈夫と返事をしたのに、まるで彼女のように妄想してしまった。ヒナちゃんの嘘つきと流那に嫌われたくない。約束したのにと泣かれたら悲しい。かといって圭麻からのキスや甘い言葉を避けられない。断ったら、それはそれで申し訳なくなる。流那の想いと圭麻の想い。どちらを優先したらいいのだろうか。
「ごめんね……。流那ちゃん……」
自己嫌悪に陥り、小声で謝った。隠れてキスしてしまったこと、大好きと言ってしまったこと。流那に知られたら絶対に裏切り者と罵られる行為だ。次に圭麻に迫られた時、流那が陰で見ていたら……。今日はとりあえず気付かれずに済んでよかったと、ほっと息を吐いた。
朝になって、はっと目を開けた。いつの間にか眠りについていたらしい。天気は快晴で、とても暑そうだ。部屋から出ると、パジャマ姿の流那と圭麻が朝食をとっていた。
「ヒナちゃん、おはようっ」
「ちゃんと疲れ取れたか?」
「う、うん……。流那ちゃんと圭麻くんは?」
「元気だよー。今日もプールに行きたいって圭ちゃんに話してたんだ」
「でも、俺は休みたいんだよね。肩もまだ凝ってるし」
「そうなんだ。まあ、まだ夏休みは終わらないんだし、もうちょっと圭麻くんを休ませてあげようよ」
むうっと俯いて、流那は答える。
「ヒナちゃんまで……。しょうがないなあ。必ず遊びに連れてってよ」
「はいはい。全く、流那はわがままだなー」
「ヒナちゃんも、水着忘れないでね。また泳げなかったら、流那怒っちゃうからね」
「ごめんごめん。一緒にプールで泳ごうね」
流那の頭を撫でると、ぎゅっと抱き付いてきた。




