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七十五話

 とりあえず何事もなくお泊りは終わった。家の前まで送ってもらい、「ありがとう」と感謝を告げた。しかし、ふとある思いが生まれ蓮のマンションに向かった。傷つけ虐待をしたのは母で、父は関係ないじゃないか。自分を助けてくれなかったという恨みはあるかもしれないが、だからといって嫌うのはあんまりだ。インターフォンを押すと、十分ほど経ってからドアが開いた。電話もそうだが、蓮はいつも反応が遅すぎる。

「もっと早めに出れないの?」

 不満をぶつけると、蓮は面倒くさそうに欠伸をして答えた。

「寝てたんだよ。俺にも都合があるんだから」

「まだ過眠症、治ってないの?」

「過眠症かどうかは決まってないけど、とにかく眠いんだよ。無視されなかっただけでもありがたいと思えよ」

 偉そうな態度にむっとしたが、これ以上文句を言うと帰れと怒鳴られそうだ。リビングに行くとソファーに腰かけた。柚希の家に泊まったことは隠し、単刀直入に父について聞いてみた。

「あのね。蓮くんって本当にお父さんを尊敬してないの?」

 ちらりとすずめの顔を見て、視線を逸らした。

「尊敬してねえよ。あれほど家庭を顧みない、愛情のない奴なんて」

「だけど、虐待したのはお母さんでしょ? お父さんには傷つけられてはいないんだよね?」

 蓮の体が石のように固まった。やがて腕を組んで、聞き返してきた。

「……お前は、俺にどう言ってほしいんだ? 父親を尊敬してますって言わせたいのか?」

「そういうつもりじゃ……。ただ、もしかしたらお父さんは蓮くんを愛してたんじゃないかなって考えて……」

「あの男が、俺を愛する? 絶対にないね。あいつが好きなのは自分と金。それ以外は虫けらと一緒。だから俺が泣いてても助けようとしなかったんだよ」

「虫けら? あんまりだよ。もし愛情がなかったら、そもそも子供を作ろうって思わないじゃない。きっと遠くから蓮くんを大切に想って愛してたんだよ。ただ仕事が忙しすぎて、そばにいられなかったってだけ」

「実際に会ってないから、そうやって優しい父親だと想像できるんだよ。お前もあの男の姿を見たら、愛情がある人間だって思わなくなるぞ」

 返す言葉がなくなり、無意識に俯いた。蓮も小さくため息を吐き黙りこくった。

「……あたし、かっこいい蓮くんが見たいよ」

 そっと口から漏れた。蓮のツリ目が大きくなる。

「は?」

「蓮くんも、立派になってほしい。かっこいい蓮くんを見てみたい」

 病気で苦しんでいる人たちを治してあげる素晴らしい仕事に就いて、みんなから感謝されている蓮をこの目に焼き付けたい。

「外科医になれって意味か?」

「もちろん、他に夢があるなら無理にとは言わないよ。けど、せっかく外科医の息子として産まれたんだから、蓮くんも外科医になればいいのに」

 ちょっとやそっとでなれる職業ではないが、蓮ならきっとなれるとすずめは信じている。蓮はまたため息を吐き、目を逸らして黙っていた。

 それから、気まずい沈黙が続いた。お互いに一言も話さず、どんよりと重い空気が流れていった。窓の外はすっかり夜の色に変わり、蓮は電気を点けた。仕方なくすずめも立ち上がり玄関へ歩いて行く。

「帰るのか」

 声をかけられ、前を向いたまま答えた。

「うん。ずっとここにはいられないもん。お邪魔してごめんね」

「ふうん……。てっきり泊まるのかと思ってた」

 はっと顔を上げ、振り返った。

「え? 泊まっていいの?」

「何を今さら確認してるんだよ。これまでだって自分勝手に泊まってただろ」

「それは……そうだけど。じゃあ、お泊りさせてもらうね」

 やっと笑顔が作れた。だが、その裏で昨日も柚希の家に泊まったではないかという焦りも浮かんでいた。二日連続でお泊りなどしてもいいのだろうか。しかも同い年の男子の部屋に二人きりで無防備で寝るなんて……。

「どうしたんだ? ぼけっとして」

「いやいや。何でもないよ」

 苦笑しながら首を横に振ると、蓮は安心したように頷いた。




 すずめも蓮も料理ができないため、夕食は出前にした。すずめが食べたいものがピザだったので、蓮が頼んでくれた。届いたピザで腹をいっぱいにし、すずめは風呂に入った。何度も泊まっているからか蓮のマンションで裸体になるのは恥ずかしくも緊張もなかった。そもそも蓮が女の体に興味がないとわかっているので、覗かれるのではという心配はゼロだ。もちろん彼が目の前にいたら無理だ。

 タオルで髪を拭きながらリビングに行くと、蓮はソファーでくつろぎながらテレビを観ていた。すずめも観ると、心霊ビデオの特集番組だった。

「うわわっ。どうしてこんなテレビ観てるのよー」

 叫ぶと、蓮がこちらに視線を向けた。

「そういや、お前ってこういうの苦手なんだっけ」

「苦手だよ……。違うチャンネルにしようよ」

「こんなもので怖がるなんてお子ちゃまだなあ。これって全部ヤラセだろ」

「ヤラセじゃないよ。ほらっ、体が透けてるじゃないっ」

「最近はパソコンで加工できるんだよ。これもまたヤラセだな」

「うわあああっ。やめてー」

 ぴとっと蓮の背中にくっ付くと、突然服のボタンを外した。

「わああっ。どうしたの? ぬ、脱ぐの?」

 瞬く間に蓮は上半身だけ一糸まとわぬ姿になった。

「お前がそばに寄るから暑いんだよ。もう少し向こうに行けよ」

 慌てて距離を置いた。そして頭を下げる。

「ご、ごめん。でもあたし、本当にお化けが怖くて……」

 しょんぼりと呟くと、蓮がにっと笑って髪をかき回した。暑いと言ったのに、なぜ近づいてくるのかわからず戸惑った。

「お前って、従順でしつけのできた犬みたいだな」

「なっ……。い、犬? また馬鹿にして」

「馬鹿にしてねえよ。素直で大人しいって褒めてるんだ。もっとこっちに来いよ。可愛がってやるぞ」

 腰に手を回し、思い切りくすぐった。

「きゃああっ。やめてーっ。あたし、腰くすぐられるの弱いんだからっ」

 あははと泣き笑いして暴れると、蓮はくすぐりを止めてぎゅっと抱き締めてきた。風呂で綺麗になった髪や頬に触れ、耳元で囁く。

「どこもかしこもふにゃふにゃだな。骨、入ってんのか?」

「入ってるよっ。女って体が柔らかいの。あたしだけじゃないよ」

「へえ……。同じ人間なのに、どうして違うんだろうな」

 すずめにも理解できなかった。男女の違い。女は柔らかく、男は固い……。

「うーん。たぶん、女は子供を産むからじゃない? 子供を産む時、体が固かったら赤ちゃんも苦しいでしょ。抱っこしてあげる時も、できれば柔らかい胸がいいじゃない」

 父親に抱っこされると赤ん坊が泣くとよく聞くが、もしかしたら体が固くて嫌がられるのかもしれない。

「そうか。確かにそれもあるかもな」

「いつか、あたしもお母さんになれるのかな。蓮くんもお父さんになるんだよね。どんな未来が待ってるんだろうね?」

 そっと話すと、蓮は即答した。

「俺は父親にはならないだろうな」

「え? どうして?」

「俺に恋人ができると思うか? めでたく恋人同士になっても、突然別れたり離れ離れになったりするだろ。結婚したって子供が生まれないかもしれない。本当に何事もなく、すんなりと幸せを掴むのって、ほんの一握りなんだよ」

 ぐっと拳を固くした。蓮の言葉は、すずめの心に強く響いた。結婚すれば、必ず幸せになれるとは限らない。特に、女は男に傷つけられたり捨てられたりしたら、どうやって生きていけばいいのか。もし子供がいたらシングルマザーとなり、子育ても家事も仕事も一人でしなくてはならない。

「……何だか、蓮くんって恋愛するつもりはないのに、よく考えててすごいね。恋愛したいあたしより、しっかりとしてて」

 囁くと、抱き締めていた腕が放れた。テレビに視線を移すと、心霊ビデオの番組は終わっていた。


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