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七十四話

 すずめが何も言わないため、柚希も無言で中に入った。部屋のドアを開けて、まずベッドに寝かされた。

「具合悪くない?」

「平気だよ。ちょっとめまいはしてるけど……」

「じゃあ、お風呂はパスして寝ちゃおうか?」

 聞かれて、どうしようかと戸惑った。暑くて汗はかいているし、女の子は必ず体を清めたい。しかしなかなかアルコールは抜けそうにはなかった。

「まあ、一日くらいはパスしても大丈夫だよね。俺も疲れたから眠ろうかな」

 柚希の言葉に、仕方なく頷くしかなかった。

 ベッドに横たわっているすずめのすぐ後ろに柚希も横になる。腕を伸ばし、背中から抱きしめられた。

「やったね。すずめちゃん独り占めだ」

「独り占め?」

「うん。学校だと、いつも高篠くんか天内くんが近くにいて二人きりになれないから、とっても嬉しい。俺もすずめちゃんと仲良くしたいのに、一人だけ仲間外れみたいにクラスも違うし。寂しいじゃないか」

「柚希くんはA組だもんね。あたしも柚希くんと同じクラスになりたかったな」

 これは嘘ではなく本心だ。陽ノ岡はクラス替えがなく、一年生の時に決まったらそのままずっとクラスは変わらない学校だった。また、席替えもないため、すずめのとなりに座るのは蓮なのだ。転入してきた圭麻が後ろの席になってしまったのもそのせいだ。

「前から、担任にB組にしてくれって頼んでるんだけど、スルーされてるんだよ。酷いよなあ。どうして聞いてくれないんだろう」

「王子様がB組に集まっちゃうからじゃない?」

 ふと口から漏れた。驚いたらしく柚希の口調も変化した。

「え?」

「柚希くんも蓮くんも圭麻くんもかっこいいでしょ? B組ばっかり素敵な男子がいたら、女の子たちが教室に溢れかえっちゃうよ」

「なら、天内くんも違うクラスにしてほしいよ。どうして俺だけなのかな」

「というか、どうやって圭麻くんは、あたしがB組だって知ったんだろうね? たまたま同じだったってこと?」

 まるですべてお見通しのようだった。もちろん偶然だとはわかっているが、未だに謎だ。

「だから、この夏休みはすずめちゃんに急接近しようって決めてるんだ」

 言いながら、柚希の腕の力が強くなった。さらに距離を縮め、お互いの足が絡み合う。すずめは石のように固まり、冷や汗が流れ始めた。

「そ、それって……。どういう……」

「もっとこっちにおいでよ」

 どきりとした。柚希の声はかなり真剣で、緊張でがんじがらめになった。

「ゆ、柚希くん。いきなりどうしたの?」

「いきなりじゃないよ。俺は、すずめちゃんと仲良くなりたいって願ってたんだ。ずっとずっと前から。自分だけの宝物にしたいってね。ついに叶う時がやって来たんだ」

「あたしなんて地味だし、ただの村人だし……」

「すずめちゃんは、すっごく可愛い女の子だよ。むしろ俺は地味な方が好きだな」

「いや……。でも……」

 慌てて振り返ると、額にキスをされた。ばくんばくんと心臓が跳ね上がる。憧れていた片想いの王子様とこんな状態になっているのだから当然だ。小刻みに震えているすずめの耳に、柚希はそっと囁いた。

「別にエッチなことはしないよ。怖がらなくても大丈夫だよ」

 それはすでにわかっている。柚希が優しくて、すずめを傷つけない性格なのは知っている。ただ手が触れるだけで、背中から見つめられるだけで、痛いほど鼓動が高鳴ってしまうのだ。

「……も、もう寝ようよ……。あたし、疲れちゃった……」

「そういえば、ワインで目が回ってるんだもんね。ごめん。早く眠りたいよね」

 しかし、腕や足を外してはくれない。このまま睡眠をとるのは無理そうだった。

 ふと、あることが頭に浮かんだ。柚希はキス魔で、寝ぼけている時だけ誰彼構わず口づけをする性格らしい。今日も柚希にキスをされるかもしれない。だが完全に捕まえられているし、逃げられる術はない。

「もしかして、俺にキスされるって考えてるの?」

「えっ」

「俺がキス魔だって、桃花から教えられたんだろ? 自分でもびっくりなんだけど、無意識にキスしてるみたいだね。クリスマスパーティーの朝も、すずめちゃんにキスしちゃって……」

 はっと目を丸くした。かなり衝撃を受けた。

「あたしにキスしてたって……。わかってたの?」

「後になってからね。顔を洗おうと鏡見て、唇にリップクリームが付いててさ。驚かせて本当に悪いことしたなって反省してるよ。ごめんね」

「謝らなくていいよ。でも、柚希くんがキス魔なんて信じられなかったけど」

「俺は甘いものが大好きだから。もしかしたらふわふわでお菓子みたいな女の子の唇も大好きなのかもしれない」

 ぽっと頬が火照った。圭麻にもお菓子の匂いがすると言われ、何となく嬉しくなった。

「えへへ……。かっこいい柚希くんにキスされて、あたしって幸せ者だなー」

 囁いたが返事はなく、代わりに寝息が耳に入った。ワインの酔いはほとんど醒め、全身を固くして目をつぶった。しかし睡魔は現れず、うつらうつらしかできないまま朝になった。寝ぼけてキスをされるかと不安だったが、今日はすぐに起きてくれた。

「猫ちゃん、来なかったね」

「ああ。あの三匹は目覚まし時計だからね。休日は部屋に入ってこないよ。それに俺のこと馬鹿にして嫌ってるし」

「そうなの? 嫌いなんだ?」

「母さんと桃花の言うことしか聞かないよ。すぐにかじったり爪で傷つけたり。俺が家出して痣だらけになった時も、背中ひっかいてきたしね。本当に可愛げのない猫だよ」

 思い出したくない過去が浮かぶ。すずめが表情を暗くしていると、柚希が服を脱ぎ始めた。どきりとして慌てて止める。

「うわわわわっ。柚希くん、どうしたの?」

「痣だよ。ほとんど消えてるって見てもらいたくて」

 華奢な胴体に視線を移し、確かに以前よりも傷が薄くなっていると感じた。

「痛みもなくなった?」

「うん。すずめちゃんと天内くんのおかげだよ。二人の優しさで立ち直れたんだ。本当に、本当にありがとう」

 柚希の瞳が潤んでいる。血も涙もない家族に酷い目に遭わされたという悲しみに、すずめも切なくなった。そして、もう二度とあのような出来事は起こってほしくないと願った。




「あ、そうだ」

 バッグから音楽プレーヤーとCDを取り出した。予想していなかったのか、柚希は目を丸くした。

「クラシック音楽?」

「そう。蓮くんに教えてもらったの。クラシックって脳にいいんだって。活性化したりリラックスしたり安眠になったりするらしいよ。もしストレスとプレッシャーで爆発しそうになったら、クラシック音楽聴いてみたら?」

「……そうなんだ。高篠くんが、そんなこと話すなんて意外だな。いつもイヤホンで音楽聴いてるけど、クラシックだったんだね」

「蓮くんはお父さんが外科医だから、そういうのに詳しいよ。でもお父さんを尊敬してはいないし、あんな人間にだけはなりたくないって決めてるけど」

 息子を大切にせず家族を顧みない冷たい父親。だが、実際に蓮を痛めつけ虐待をしたのは母親の方なのにとすずめは思う。父は子供に興味がなかっただけで、そこまで悪い人だとは想像できなかった。

「ふうん……。あんな人間にだけはなりたくない、か。俺もお金を持っているかどうかだけで判断する奴にだけはなりたくないな」

 柚希の声は冷たく、軽蔑が混じっていた。どこか遠くを睨みつけ、怒りなのか手が震えていた。


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