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七十三話

 その後は、ほとんどおしゃべりばかりで宿題はほったらかしだった。あまり興味のない話でも、柚希は必ず耳を向けてくれるし、たぶん蓮だったら面倒だと文句を言いそうな内容も、全て聞いてもらった。そのため、すずめも柚希のおしゃべりにはきちんと相槌を打ち柔らかな笑顔を見せた。

 五時になってから、柚希が立ち上がった。夏なので、外はまだ明るい。

「そろそろ帰ろうか」

「うん。今日は誘ってくれてありがとう。楽しかったよ」

「こちらこそありがとう。また頑張ろうね」

 机の上に広がっている荷物をバッグに押し込み、並んで図書館から出た。

「じゃあね」

 手を振り別れて歩いて行くが、突然後ろから腕を掴まれた。驚いて顔を上げて、どきりとした。真剣な眼差しの柚希が見つめていた。

「どうしたの?」

「やっぱりだめだ。すずめちゃんと離れたくない」

「え?」

「俺の家に来てくれない? 俺の部屋に泊まってほしい」

 冷や汗が流れた。厳格な母の睨みつける目が蘇る。

「でも、お母さんと桃花ちゃんが……」

「夏休みの間、ずっと母さんと桃花は旅行に行ってて俺一人なんだ。もし泊まっても誰にもバレないよ。だから……。泊まってほしい……」

「でも、急に帰ってきたりしない?」

「しないよ。海外旅行だからね。もし帰って来ることになっても、すごく時間がかかるよ」

 確かに海外なら、すぐには戻って来れないだろう。どくんどくんと緊張でがんじがらめになり、無意識に視線を逸らした。きっと柚希は一人ぼっちで寂しく耐えられないのだ。だからといって軽い気持ちでOKするのも気が引ける。どうしたらいいのかわからず、だらだらと冷や汗が流れるだけだ。

「……ごめんね。いきなりおかしなこと言って……。すずめちゃんにも都合があるのに、わがままだよね」

 声に涙が混じっていた。切なさで胸がいっぱいになり、慌てて答えた。

「泊まるよっ。とりあえず、あの二人がいなければ平気だもん。一日なら、お父さんもお母さんも許してくれると思う」

「本当?」

 ぱっと柚希の表情が明るくなった。口調も変わった。

「嬉しい。すずめちゃんがそばにいてくれたら……。俺、すっごく癒されるんだ。断られるんじゃないかなって心配してたから、感激だよー」

 すずめは、どうやら男子の涙に弱いらしい。圭麻の時も、涙を流している姿を見て心が大きく揺れた。

「友だちの家に泊まったって言い訳すれば、お母さんたちは疑ってこないから」

「家族に嘘つくのはよくないんじゃない?」

「大丈夫。聞かれたら答えればいいだけだよ」

 ぎゅっと手を握り締めると、柚希も嬉しそうに微笑んだ。

 歩きながら、本当に泊まってもいいのかと自分に言い続けていた。もし、すずめが泊まったと知られたら、あの二人は何をしてくるのだろう。次は絶対にすずめも傷つけるに違いない。いろいろと妄想し始めたらきりがない。しかし今さら嫌とは断れず、ついに屋敷に辿り着いた。

「そういえば、車の運転手さんは?」

「あの人たちは、基本的に家には入れないんだ。車を使う時に呼ばれるだけ。俺の部屋には一度も入ったことないよ」

「じゃあ、柚希くんを殴った男の人たちって誰だったの?」

 つい口から漏れてしまった。だが柚希は黙ったまま重そうなドアを開いた。そのことについて触れたくないのだろう。思い出したくないのに嫌な思いをさせて、すずめも反省した。

 柚希の部屋は知っているので、そんなに驚きはなかった。相変わらず、とにかく広くて、とにかく綺麗で、とにかく豪華の三拍子だった。

「すずめちゃん、食べたいものある?」

「あたし、お腹空いてないよ」

「空いてなくても、食べないと後で空いちゃうだろ。俺は何でも食べられるから、すずめちゃんが決めて」

 すぐに答えは見つからない。そこで、以前蓮とデートをした時を思い出した。

「回転寿司はどう? 柚希くんはお寿司好き?」

「もちろん大好きだよ。さっそく行こう」

 微笑み、夕食は回転寿司となった。近所にある安い店に客はそれほど多くなく、すぐに呼ばれた。向かい合わせに座り、どきどきしながら皿を取って食べ始める。蓮や圭麻とはお昼に弁当を食べているが、柚希とはほとんどないので緊張してしまう。

「ねえねえ、あの男の子かっこよくない?」

 ひそひそ声が耳に飛んできた。ちらりと視線を動かすと、若い女の子たちが柚希を注目していた。やはりどこへ行っても柚希は素敵なイケメン王子なのだと優越感に浸る。だが、すぐに空しい言葉も飛んできた。

「あの子、もしかして彼女かな?」

「そんなわけないでしょ。あんなブスが恋人になれるわけないよ」

「だよねー。きっと友だちが一人もいないから、同情して連れて来てやったって感じかな」

「ブスって友だちもできないんだ。うわあ……。惨めー」

 恥ずかしさと悲しさで俯いた。早くこの場から逃げ去りたいと涙が溢れてきた。自分はどこへ行ってもブスで魅力の欠片もないのだとショックを受けた。

「すずめちゃん? 泣いてるの?」

 はっとして顔を上げ、ごしごしと目をこすった。

「えへへ。わさび……。付け過ぎちゃった」

「もう出ようか。ここにいたくないんだろ?」

 柚希が噂をしていた女の子たちをちらりと見て言った。もしかして聞こえていたのか。

「俺、お金払ってくる。すずめちゃんは外で待ってて」

「あ、あたしも払うよ」

「奢るから。気にしなくていいよ」

 申し訳なかったが、小さく頷いた。柚希がすたすたと歩いて行き、すずめはドアの前で待った。会計を済ませた柚希が手を挙げて駆け寄ってきた。

「ごめんね。次はあたしが奢るね」

「気にしないでって。それより、あの子たち酷い性格だね」

「やっぱり聞こえてたの?」

「近くにいるんだから耳に入るよ。名前も知らないすずめちゃんをブスだとか惨めだとか……。俺、ああいう他人を馬鹿にする女が一番嫌いなんだ」

「そ、そうなの?」

「だって失礼じゃないか。ファンクラブの子も嫉妬深くて性悪ばっかりで、おしゃれな服着てても全然可愛いと思えないよ。でも、すずめちゃんはそういうところが一切なくて純粋できらきら綺麗で、とても心地いいんだ。みんな、すずめちゃんを見習えって考えてる」

「え? あたし、純粋かなあ?」

「すっごく純粋だよ。もし彼女にするなら、そういう子にしたいな」

 ぽっと頬が火照った。アイスのようにとろけていくようだ。

「そんな風に言ってもらえて感動だよ……。嬉しいなあ」

「きっと、高篠くんと天内くんも、すずめちゃんの素直で純粋な性格に惹かれてるんだね。すずめちゃんは、男にとってまさに理想の女の子なんだよね」

「柚希くん。あたし、圭麻くんには好きって言われたけど、蓮くんには嫌われてるよ。馬鹿で魅力の欠片もないって見られてるんだから。勘違いしてるよ」

 苦笑したが、柚希は首を横に振った。

「いや。高篠くんもお気に入りの子だと感じてるよ。じゃなきゃ、一緒に過ごしたりおしゃべりしたりしないよ?」

「それは……。そうかもしれないけど……」

 嫌われてないのかもしれないが、それでもあの一言はぐさりと胸に刺さった。ずっとずっと落ち込んでいるのだ。

「気分転換に、甘いものでも食べようか?」

「本当? いいの?」

「まだお腹いっぱいじゃないし、デザートってことで。さっそく行こう」

 柚希の優しさに、改めて好きという想いが溢れた。冷たい蓮の言葉が柚希のおかげで消えて、代わりに笑顔が生まれた。

 喫茶店は、すずめが知らないところにあり若い子が少ないバーのような雰囲気だった。すずめが傷つかないように、あえて大人っぽい場所を選んだのかもしれない。メニューもカクテルや酒など、高校生ではまだ飲んではいけないものがたくさん並んでいた。

「柚希くんは何にするの?」

 聞くと、首を傾げながら答えた。

「うーん……。ワインにしようかな」

「でも、お酒は二十歳を過ぎてからでしょ? バレたらお母さんに怒られちゃうよ」

「少しくらいなら平気だよ。せっかく来たんだし、飲んでみようよ。ね、すずめちゃんも。車を運転するわけじゃないんだし」

 そして店員を呼び、ワインを二つ注文した。どきどきしながらもう一度繰り返す。

「大丈夫かなあ。あたしお酒飲んだことないよ」

「あと数年すれば二十歳になるんだから。酔ったら俺がおんぶして歩くよ」

「おんぶ? 無理だよ。あたし重いのに」

「心配しないで」

 緊張して俯くと、店員が近寄ってきた。顔を上げると、目の前にワイングラスが置かれていた。

「じゃあ、すずめちゃん。乾杯」

 柚希がグラスを手に取り、すずめも慌てて持ち上げた。

「か、乾杯」

 こつん、とグラスを当て、ゆっくりとワインを口にした。それから一秒も経たず、すずめは気を失った。



 はっと起き上がり、自分が外にいると気付いた。喫茶店で柚希とワインを飲んでいたはずなのに……。

「あ、すずめちゃん。目が覚めた?」

「え?」

「いやあ、まさか一口で酔っちゃうとはね。アルコール弱いのかな?」

 柚希におんぶされていると知り驚いてしまった。

「うわああっ。ご、ごめんっ。重かったでしょ? 自分で歩くよっ」

「まだ完全にアルコールが抜けてないから、このまま俺がおんぶするよ。それに痩せてるから辛くないし」

 ははは、と明るい口調で言う。確かに周りがぐるぐると回って見えるので、素直に頷いた。

「迷惑かけてごめんね。倒れちゃうなんて馬鹿みたい」

「しょうがないよ。俺の方こそ、無理矢理飲めなんて話してごめんね」

 申し訳なさそうな声が聞こえてきた。だが、すずめは返す言葉がなく、聞こえなかったフリをして黙っていた。

 




 


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