七十二話
クーラーのきいた部屋でぼんやりと窓の外を眺めていると、机の上の携帯が鳴った。はっとして出ると、柔らかな柚希の声が飛び込んできた。
「すずめちゃん、明日は予定ある?」
「ないけど。もしかして宿題?」
「うん。天気もよさそうだし、どうかな?」
すっかり元気になった柚希に、ほっと安心した。
「わかった。じゃあ十一時に図書館の前で」
「ありがとう。遅れないようにするね」
しっかりと柚希の返事を聞き、電話を切った。
まず苦手な英語を終わらせようと決め、バッグに英語の教科書とノートを詰めていく。音楽プレーヤーも入れておいた。蓮がプレゼントしてくれたのに、全く使っていない。CDも借りたが、一度も聴いていなかった。
「そういえば、クラシックって脳がリラックスするんだっけ」
活性化し癒されるらしい。頭と心は繋がっているため、もしかしたら柚希にも効果があるかもしれないと思い付いた。ストレスとプレッシャーで爆発しそうな毎日が、クラシック音楽で少しでも気軽になれたら。
「よし、柚希くんにもクラシックを教えてあげよう。柚希くんを助けるのがあたしの役目なんだから」
ぐっと拳を握り、借りたCDもバッグに押し込んだ。
翌日、十一時に図書館の前で待っていると、輝く笑顔で柚希が駆け寄ってきた。すずめを見つけると手を振って名前を呼んだ。
「すずめちゃん、遅くなっちゃってごめんね。待った?」
「あたしも今来たところだよ。全然待ってないよ」
「ならよかった。さて、さっそく中に入ろうか」
そのまま柚希は図書館の方へ歩いて行く。柚希の背中に、実は自分なりにおしゃれをしてきたんだと目線で伝えた。もちろん彼には届かなかった。もっと魅力あふれる女の子だったら、と自己嫌悪に陥った。たぶんエミだったら、可愛いと褒められるはずだ。しかし地味で村人のすずめは、何とも思ってもらえない。お世辞でも嘘でもいいから、洋服似合ってるねなどと話してほしかった。悔しさと惨めさでいっぱいだが、ぎゅっと目をつぶって首を横に振った。エミを嫉妬してはいけないと、自分に強く言い聞かせた。エミは悪くない。柚希も悪くない。ただ、すずめが可愛くないというだけなのだ。
一番奥の椅子に座り、バッグから教科書とノートを取り出した。柚希も英語だった。
「あれ? 偶然。すずめちゃんも英語から終わらすの?」
「あたし、英語が大の苦手で」
「それなのに、陽ノ岡に入学したんだ?」
はっとした。確かに陽ノ岡は英語のレベルが高く、すずめにとって最も避けたい学校だ。受験も死ぬ気で頑張り、ほとんどぎりぎりで合格したものの、また苦しんでいる。
「いや……。親友のエミと同じ学校に行きたくて」
「そっか。テスト勉強、大変じゃない?」
「そりゃあもう。二年生になってから、もっと難しくなるし」
柚希と同じ学校に通いたかったというもう一つの思いは黙っておいた。惚れているとバレたらまずい。また、圭麻の耳にも届いたら、絶対に言い逃れできない。
「俺も英語苦手なんだ。ペラペラの高篠くんが羨ましいよ」
「あたしも。日常生活で覚えられるんだもんね。アメリカで生まれ育ちたかった」
そういえば、蓮が英語でしゃべっているのを聞いたことがない。初めてデパートで会った時は話していたが、いつか見てみたい。
「俺は、英語ができないと仕事に影響するからなー。本当に困っちゃうよ」
そして教科書を広げる。同じく、すずめも勉強に集中した。しばらくすると、ペンがぴたりと止まった。わからない問題がやって来た。ちらりと柚希に視線を向けると、すでに先のページに進んでいた。教えてほしいと目で伝えるが、やはり届かず諦めてノートに視線を戻す。自分で解こうと考えても、答えは出てこない。
「すずめちゃん? どうかしたの?」
そっと囁きが聞こえた。はっとして、また柚希に目を向けた。
「もしかしてわからないの?」
「う、うん。ここなんだけど……」
「そっか。ちょっと待ってね」
椅子から立ち上がり、すずめに覆い被さるように柚希は距離を縮めた。お互いの頬がくっ付き、興奮して勉強どころではなくなった。あまりの緊張で頭が狂いそうになる。
「間違いやすいんだけど、よく考えるとわかるよ」
柚希の優しい説明がそのまま耳に飛び込み、ぞくぞくと全身が震えた。持っていたペンを落とし、柚希も気づいたらしい。
「すずめちゃん、具合が悪いの?」
「だ、だって……。柚希くん、かっこよすぎ……。どきどきしちゃうよ」
ぽっと柚希の顔が赤くなった。こうして照れている姿は初めてだった。
「そうかな? ありがとう。すずめちゃんに言われると嬉しいなあ」
「柚希くんって、まさに王子様だよ。礼儀もちゃんとしてるしとにかく思いやりに溢れてて。だから女の子にモテモテなんだね」
「別に、他の女の子はどうでもいいよ。すずめちゃんに褒められるのが、俺は一番幸せだから」
どきりと鼓動が速くなった。それは特別扱いされているという意味なのか。
「高篠くんと天内くんもイケメン王子だけどね。すずめちゃんはお姫さまだね」
「お姫さまなんて……。ただの村人だよー」
「今日だって、とってもおしゃれしてるし。いつも可愛い格好してるよね。見惚れて声が出せなくなっちゃうんだ」
「見惚れる? あ、あたしに?」
どくんと心臓が跳ねた。笑いながら柚希は頷く。
「この間、お弁当のお礼に天内くんに会いに行ったんだ。そうしたら、ヒナコをどう思ってる? って質問されて、見た目も性格も最高の可愛いお姫さまって答えたら、そうだよなって天内くんも嬉しそうだったよ。でも、高篠くんは馬鹿で魅力の欠片もない奴だって悪口言ったんだろ? そんなこと全然気にしなくていいからね」
ぶわっと涙が溢れた。先ほどの惨めでやるせなかった心が、一気に色を変えた。大好きな柚希に、ここまで褒められるとは……。
「嬉しい。感動だよ……。あたし、そんな風に思われてたなんて……」
「すずめちゃんは、あんまり自分に自信がないようだけど、そんなことないんだよ。とっても可愛くて愛情もたっぷりで、優しいお母さんみたいで癒されるんだよ。高篠くんにいろいろ言われても落ち込んじゃだめだよ」
「蓮くんには、これまでにも酷いことされてきたから、もう慣れっこだよ」
「酷いこと? 例えば?」
「本当に、びっくりするくらい嫌なこと。そのせいで、害虫男って怒鳴ったんだし」
「ああ、そういえば、そんな日があったね。高篠くんって冷たそうだから、しょうがないかもね」
「もっと穏やかで明るい性格になってほしいよ」
ふう、と息を吐くと、柚希はバッグから携帯を取り出した。そしてすずめの顔に向けてパシャっとカメラを撮った。
「え?」
「すずめちゃんの写真、ずっとほしかったんだ。これで、母さんと桃花からのストレスとプレッシャーに打ち勝てるぞっ」
また嬉しさと喜びで胸が暖かくなった。勇気を振り絞って、そっと囁く。
「どうせだったら、ツーショットにしない?」
「ツーショット?」
「柚希くんも一緒に写ろうよ。せっかくだから、二人で並んで。どう?」
すぐに柚希は微笑み、大きく頷いた。
「そうだね。じゃあ、もっとこっちに来て」
言われた通り、椅子を動かして彼の近くに寄った。携帯の画面は狭く小さいため、どんどん距離が縮んでいく。どきどきと鼓動も速くなっていく。初めて柚希に会った時も、こんな感じだった。女の子たちに囲まれて照れくさそうに笑っている姿に体中が熱くなっていった。人を好きになるとはこういう気持ちなのだと知った。それからずっと柚希に片想いし、憧れ、少しでもいいから仲良くなりたいと願っていた。まさかこうして二人きりで夏休みの宿題ができるほど親しくなれるとは夢にも思っていなかった。
ぼんやりとしていると、カメラの音がして我に返った。
「上手く撮れた?」
「うん。すずめちゃんにも送るね」
「ありがとう。待ち受けにしちゃおうかなー」
「いいね。俺も待ち受けにしよう。そうすれば、おそろいの待ち受け画面になるし」
「うわあ……。おそろいなんて感激だよ」
しっかりと伝えると、柚希から写メが送られてきた。さっそく待ち受けにして携帯を見せると、柚希も満足そうに微笑んだ。




