七十一話
「え? 全部バレてたの?」
教室に戻り、弁当箱にしっかりと名前が書かれていたと知らせると、圭麻は驚いた表情をした。
「ほら、ここ。天内って見えるでしょ」
「あちゃー……。俺としたことが……。せっかく喜びそうな設定にしたのに失敗だよ」
「でも、柚希くん喜んでたよ。すっごくおいしかったって。またできたら作ってあげてほしいよ」
お願いをすると、圭麻はにっこりと微笑んで頷いた。
「もちろん。ヒナコが一緒にお弁当食べてあげてね」
「うん。柚希くんが元気になれるまで、暇さえあれば会いに行くよっ」
ガッツポーズをすると、圭麻はすずめの頭を撫でてくれた。
放課後、一人で帰り道を歩いていると蓮に声をかけられた。
「あいつ、どんな感じだった?」
「柚希くんのこと?」
「そうだ。ものすごく落ち込んでるのか?」
まるで他人事のように話していたが、蓮も意外と心配していたのだと胸が暖かくなった。昼休みに見た傷や痣を打ち明けると、腕を組んで呟いた。
「俺の母親も酷かったけど、あいつもかなり苦しめられてるんだな。本当に血が繋がってるのか?」
「あたしも信じられない。謝っても許さないで、もっとやれなんて……。ただ家から逃げたってだけで、そこまでする?」
「頭がいかれてるとしか思えねえよ。金持ち以外の人間は認めないってところがもう狂ってる」
クリスマスパーティーの夜が蘇った。一目ですずめを田舎暮らしの貧乏人と決めつけ悪口を並べ立てた。あの妹もおかしい。小遣いをもらっていないから父親は働いていないなど、よく言えたものだ。
「体中、青痣だらけなのか」
「酷いよ。痛々しくて涙が溢れてくるよ」
俯いて答えると、蓮は長いため息を吐いた。
「もしあのまま家にいたら、もっと傷つけられるかもしれない。早めに一人暮らしを始めた方がいいな」
「だから、あたしの家に泊まってって話したのに、次はすずめちゃんが殴られたら大変だってお断りされたの。そんなの気にしなくていいのに」
「いや。あの性格なら、平気で他人のお前にも手を挙げるだろうな。一度会ってるし、めちゃくちゃ嫌われてるんだろ?」
「まあ……。仲良くするなって柚希くんに叱ってたしね」
「なら、家に泊まるなんて黙っちゃいないだろ。とんでもない目に遭わせると思うぞ」
「とんでもない目って?」
ぎくりとして冷や汗が流れた。殴るよりもさらに恐ろしいことをするのか。もちろん柚希が庇うだろうが、血も涙もない悪魔だったら手加減などするわけがない。柚希ではなく、すずめを退学させるかもしれない。
「それは俺にはわかんねえよ。ただ、後悔したくないならあんまりでしゃばったことはするなよ」
「う、うん」
こくりと頷きながらも、どうか柚希を地獄から救い出したいと願っていた。すずめも傷付かず柚希も傷付かず幸せになるには、どうしたらよいのだろうか。いろいろと予想をしたが、これといっていい案は見つけられなかった。
圭麻に宣言した通り、すずめは毎日暇さえあれば柚希の元に走って行った。圭麻もバランスのよい弁当を作ってくれて、柚希はまた穏やかな微笑みを見せるようになった。青痣も薄くなって消えていっているらしい。
「すずめちゃんと天内くんのおかげだよ。本当に感謝してもしきれないよ」
「別に、こんなのどうってことないよ。でも明るくなれてよかった」
すずめも笑うと、柚希は話題を変えた。
「ところで、夏休みの宿題ってどこでやろうか?」
「普通は図書館じゃない? 喫茶店でもいいけど」
「じゃあ図書館で頑張ろう。日にちは俺が決めるんだよね?」
「そう。電話で教えて」
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
そして、すずめの手をぎゅっと握り締めた。
教室に戻ってくると、すぐに蓮が聞いてきた。
「今日のあいつはどうだった?」
心配してるんだなと伝わり、すずめが詳しく説明すると小さく息を吐いた。昔、自分も虐待されてきたから、その辛さや悲しみを誰よりもひしひしと感じるのだろう。
「嫌なことは、さっさと忘れろって言っておけよ。いつまでも過去の出来事でネガティブになるんじゃないぞって」
「わかった。蓮くんって、意外と優しいよね」
「意外とってなんだよ」
「いつもは冷たいし、自分に関係ないことは全部無視だけど、突然態度が変わるの。蓮くんって不思議な生き物だよねー」
しかし蓮は怒ったり睨んだりはせず、小さく笑った。ぐしゃぐしゃとすずめの髪をかき乱し、からかっているみたいだった。
「や、やめてよー。もうっ」
むっとしながら手を振り払うと、そのまま歩いて行ってしまった。
蓮の後ろ姿を眺めながら、ある言葉を頭に思い浮かべた。圭麻に話した、馬鹿で魅力の欠片もないという悪口。あの冷たい一言で、ずっとすずめは落ち込み改めて自分は女の子らしさや可愛らしさがないと悲しい気持ちが胸にあった。だが、ネクタイの練習に付き合ってくれたり、学校に泊まる時もとなりにいてくれたり、実は優しい性格なのかと不思議になる。目は口ほどに物を言うというが、蓮は基本的に無表情なため、隠れた心の声を知ることはできない。もしかしたら圭麻の嫉妬の態度に嫌気が差し、口をついて出ただけで特に意味はなかったもかもしれないし、本気で呆れて馬鹿にしているから素直に答えたのかもしれない。どちらが正解かは、すずめには判断できないため、またがっくりと項垂れた。
「うーん……。蓮くんって、やっぱり不思議な生き物だな……」
そっと独り言を呟いて、これ以上考えないことにした。
同じような日々が繰り返し、夏休みが到来した。海や夏祭りには行かないとエミに言って、自分が惨めな脇役になる不安はなくなった。女の子水入らずで大騒ぎしてもいいが、たまにはゆっくりと家の中で過ごす夏休みも悪くない。
「え? どこにも行かないの?」
知世は目を丸くしたが、しっかりと頷いた。
「プールに行ったり図書館で宿題したりはするよ」
「すずめにとっては珍しいねえ。まあ、好きなようにしなさい」
娘想いの母親の言葉に、ふと蓮と柚希の姿が蘇った。二人の母は子供を虐待する性格だ。息子が泣こうが傷つこうが平気な顔をしていられる。なぜ母親に愛してもらえないのか。腹を痛めて産んだ我が子が可愛くないのか。蝶よ花よと甘やかされたすずめにはとても信じられない。
「……ねえ、お母さん」
「なあに?」
「お母さんは、あたしがお腹にいる時、どんな気持ちだった?」
疑問が浮かんだ。突然の質問に驚いていたが、知世はしっかりと答えた。
「すずめがお腹にいる時? そりゃあ幸せでいっぱいだったよ。出産の痛みが怖いっていうのもあったけど、それよりも早く赤ちゃんに会いたいっていう期待で心がうきうきしててね。みんなからも、おめでとう、よかったねって暖かくお祝いしてもらえるし」
「やっぱり怖かったんだ。どれくらい大変だったの?」
「死んじゃうんじゃないかなってくらい。すずめはなかなか出てこなくてね。ようやく生まれたのが、夜の三時ごろだったかな? 女の子なのに頑固だねって周りは笑ってたけど」
「へえ……。そうなんだ。もしあたしが男の子だったら?」
「女でも男でも変わらないよ。子供は命より大切な宝物なの。きっと、すずめもお母さんになったらわかるんじゃない?」
これを、蓮と柚希の母親に聞かせてやりたくなった。可愛がれないなら、出産なんかやめればよかったのに。子供がほしくて堪らないのに産めない女性だって数え切れないほどいる。
「ありがとう。あたし、お母さんの子供で生まれてよかった……」
ぽろりと涙が零れた。胸が熱くなっている。
「何よ、いきなり。どうしたの?」
「ううん。えへへ……。ごめんね。びっくりさせて。急に泣けてきちゃった」
自分という存在を死ぬ気で生み出してくれた母に感謝した。すずめがぎゅっと抱き付くと、知世も抱き締めてくれた。いつか、すずめも我が子にありがとうと言われる日が来るのだろうか。




